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2007年5月6日

東孝光

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美しい空間は、人々の夢のなかに、いつでも存在する。
建築家は、それを引き出し、具体的に展開し、
その人たちに見せてあげればよいのだ。
それは、彼等の内部から生まれたものだ。

結局は単純素朴で質がよく、
飽きがこない最小限の設備や空間を整えること。
その上で、その最小限を使いこなしての工夫の中に、
楽しさやその家庭の個性が出てくるものと心得るべし、
ということだろうか。

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 東孝光

東 孝光(あずま・たかみつ)/建築家
1933 大阪市に生まれる
     大阪大学工学部構築工学科を卒業,郵政省建築部,坂倉準三建築研究所を経て
1968 東孝光建築研究所を設立
1985 大阪大学工学部環境工学科教授
1995 「一連の都市住宅」で日本建築学会賞作品賞を受賞
     現在 千葉工業大学教授,大阪大学名誉教授

主な作品  

「粟辻邸」,「赤塚邸」,「さつき保育園」,「ワットハウス」など

主な著書

『都市住居の空間構成』
『住まいと子供の居場所100章』(鹿島出版会)
『「塔の家」白書 6坪に住んだ20年』(住まいの図書館出版局)

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2007年4月28日

建築家レム・コールハース

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建築は本質的にナンセンスで、独断的で、
見せかけだけであり、それを誇るべきである。

仮に人間が宇宙に撒き散らした廃棄物を
スペースジャンクとしたら、ジャンクスペースとは
人類がこの惑星にもたらした残留物である。

 レム・コールハース(オランダ)



レム・コールハース(Rem Koolhaas、1944年11月17日 - )は、オランダのロッテルダム生まれの建築家。ジャーナリストおよび脚本家としての活動の後、ロンドンにある英国建築協会付属建築専門大学(通称AAスクール)で学び建築家となった。彼は自分の建築事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)とその研究機関であるAMOの所長である。またハーバード大学大学院デザイン学部における“建築実践と都市デザイン”の教授でもある。

彼は実際の建築物より著作物の方が知られている。代表作である『錯乱のニューヨーク』や、1995年にグラフィックデザイナーのブルース・マオと競作した『S,M,L,XL』など、建築理論に関する影響力の強い本は有名である。彼は建築作品や著作物において、一方では建築の素材を生かすこと・ヒューマンスケールの維持・注意深く練られた建築意図などヒューマニストとしての理想を守るために戦うという規範を守ろうとしているが、他方では、物質経済・人間のサイズをはるかに超えたスケールの建築・雑然とした設計意図の建物の乱立など、急速にグローバル化する資本主義社会の流れに興味を持ち、この流れに身を任せようという規範も持っている。この正反対の規範が起こす矛盾を、断固許容しようという姿勢を彼は貫いている。2003年には『content』という安価な雑誌形式の本が出版され、過去十年間のOMAのプロジェクト、試み、動向、そして世界的な経済発展を振り返る内容となっている。

コールハースは調査と図表を賢明に用いることによって、前例の無い形状や関係へと突き進む都市の絶対的な力について、現代社会の文脈に沿ってまとめている。プラダのような大規模なブランドを例にして「ショッピング」を知的満足として考察する一方で、珠江デルタなど現代中国の諸都市の無秩序な状態や密集化は「パフォーマンス」、すなわち密度、新しさ、形、大きさ、金銭等の議論の余地ある確実性を伴った変数を含む基準によって分析される。容赦ない生(なま)の取り組みを通して、コールハースは建築家を死滅した職業という不安から引き抜き、一瞬でも現代の極致に復活させることを望んでいる。



作品

カーサ・デ・ムジカウィキメディア・コモンズに、レム・コールハースに関連するマルチメディアがあります。ネザーランド・ダンス・シアター (ハーグ,オランダ,1987)
ユーラリール (Euralille、リール,フランス,1988)
ネクサスワールド レム・コールハース棟 (福岡,日本,1991)
ヴィラ・ダラヴァ (パリ,フランス,1991)
クンストハル (ロッテルダム,オランダ,1992)
コングレクスポ(リール・グラン・パレ) (リール,フランス,1994)
エデュカトリアム (Educatorium、ユトレヒト,オランダ,1997)
ボルドーの家 (ボルドー,フランス,1998)
グッゲンハイム美術館 (ラスベガス,米国,2001)
オランダ大使館 (ベルリン,ドイツ,2002)
マコーミック・トリビューン・キャンパス・センター (イリノイ工科大学,シカゴ,米国,2003)
プラダ (ニューヨーク,2003,ロサンゼルス,2004)
シアトル中央図書館 (シアトル,米国,2004)
カーサ・ダ・ムジカ (Casa da Música、ポルト,ポルトガル,2004)
イウム、サムスン美術館新館(Leeum, Samsung Museum of Art、ソウル,韓国,2004)
中国中央電視台本部ビル (北京,中国,2004着工)
Milstein Hall (コーネル大学,ニューヨーク,米国,もうすぐ着工)

受賞
2000年 プリツカー賞
2004年 RIBAゴールドメダル



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2007年4月22日

建築家 隈研吾


負けることから独創が生まれる。

建築家っていうのは社会の敵だよ。
勝手なことやってるものすごい身勝手な連中だと
思われてる、普通には。でも、まあ逆にそれを
跳ね除けたときには、ものすごい社会に喜んで
もらえる仕事ができるわけだからね。

建築にはこうして欲しいなって言ってるとか
そういう敷地の声を聞くわけ。
そういうような事にどうやって答えてやって、
それを建築に反映してやれるかっていうのが
僕らの技の見せ所でね。それにはまず、
声をきかなきゃいけなくて、これはどうして
ほしがってんのかな?この場所は、
って聞くわけですね。

負けることでプロジェクトを強くして
いきたいですね。

がんじがらめの中にいろんなヒントが
あるんじゃないかなって思うんですよね。

制約を楽しむっていうのが人生の中で
上手いやり方な気がする。

プロフェッショナルというのは
同じことを二度しない人。

私にとっての理想の建築とは、建物に気を取られず、
まるで自然の中にいるような感じになるものです。

安全性とは安心感だと思います。
したがって、心の平穏を保つ自然な素材であり、
特殊な技術や建物の強度とは別だと思うのです。

技術的なことはもちろん、
設計した建築が持つ哲学が最終的に問われる世界。
その建築にかける自分の思い、こだわり、
その土地と自分の設計した建築の接点。
それらは、数字でのみ語られるものではない。
哲学のない建築は人の心を動かさない。

僕は図面を書くときは、
手紙だと思って書けといってるんです。

 隈研吾




隈 研吾(くまけんご、1954年-)は日本の建築家。神奈川県出身。

栄光学園高等学校、東京大学工学部建築学科卒。同大学院建築意匠専攻修了。日本設計、戸田建設に勤務後コロンビア大学客員研究員などを経て隈研吾建築都市設計事務所を設立。慶應義塾大学理工学部教授。

初期はM2(自動車のショールーム)など古典主義建築を引用したポストモダン建築を手がけていたが、その後、竹の家など自然素材を生かした建築を提案している。 近年、格子を多用したデザインが特徴的な作品が多く見られる。

愛知万博では会場・パビリオンの設計に携わっていた(会場計画プロジェクトチーム)が、自然保護団体の反対で度々計画が縮小したため、辞任した。

慶應理学部教授 隈研吾



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建築家ブルーノ・タウト



泣きたくなる様な美しさ、
永遠の美、ここにあり。

われ日本文化を愛す。
それは実に涙ぐましいまで美しい。

 ブルーノ・タウト(ドイツ)



ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880年5月4日-1938年12月24日)は、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。

ジャポニズム、アールヌーボーを通して日本に関心をもつ。

1909年、ベルリンで建築設計事務所開業、ライプチヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、1914年のドイツ工作連盟ケルン展での「ガラス・パヴィリオン」、1924年から携わったブリッツジードルンク(住宅団地)で国際的な評価を受ける。 1930年、ベルリンにあるシャルロッテンブルグ工科大学の教授に就任。

タウトは1932年,1933年にソ連で活動し、そのためナチスの台頭と共に親ソ連派とされてスイスに移動、その後日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年5月に日本に亡命した。

日本では、井上房一郎の招きにより高崎の群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。1935年に東京・銀座に開店した「ミラテス」で販売を始める。また東京・日本橋の丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」開催した。建築の機会は多くなかったが、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の日向別邸でインテリアデザインを行った。

1936年にトルコのイスタンブール芸術アカデミーからの招請により、イスタンブールに移住。国会議事堂の設計などで活躍したが、1938年にイスタンブールで死去した。


その他
桂離宮と日光東照宮を対比させ、前者に日本の伝統美を見出し、『ニッポン』『日本美の再発見』などを著した。数寄屋造りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えた。
日向別邸は熱海市に寄贈され、2005年から公開されている。ちなみに母屋の設計は渡辺仁。
高崎市の少林山達磨寺にはブルーノ・タウトが暮らした住居(洗心亭)が残っている。



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2007年4月16日

建築家ルイス・バラカン


建築とは空間的であると共に音楽的なものだ。
その音楽は水によって奏でられる。

静けさは人間の苦悩や恐れを
癒してくれる真の薬である。
現代における建築家の使命は
静けさにあふれた住まいをつくることなのだ。

 ルイス・バラカン(メキシコ)

2007年4月14日

建築家フンデルトヴァッサー


直線は私たちの文明を没落へと導く。

 フンデルトヴァッサー(オーストリア)

フリードリヒ・シュトヴァッサー(Friedrich Stowasser)、より一般的にはフリーデンスライヒ・フンダートヴァッサー(Friedensreich Hundertwasser. 1928年12月15日 - 2000年2月19日)はオーストリアの芸術家、画家、建築家。

日本では「フンデルトヴァッサー」という呼び方も多く用いられる。日本語での号は姓を直訳した「百水」。色鮮やかな外見の建築でよく知られる。

ウィーンのユダヤ系の家庭に生まれ、ウィーン美術アカデミーで学んだ彼は1981年から母校の教授をつとめた。

自然を愛した彼は、建築でも自然への回帰を唱え、曲線を多用した独自の様式を編み出した。 晩年をすごしたニュージーランドへ向かう客船上で死去した。

日本での作例に、東京放送|TBSの「21世紀カウントダウン時計」(東京都赤坂、1992年)、キッズプラザ大阪の「こどもの街」(大阪市北区、1997年)や、大阪市環境局舞洲工場(大阪市此花区、ゴミ処理場、2001年)がある。

2007年4月13日

建築家ハンス・ホライン


建築家は建物のみにかかわる思考を
停止せねばならない。

建築、彫刻、絵画はひとつのものになる。
空間の全体性は、ものによって支配させる。

建築は感じさせるものだ。
・・・建物は完全に情報となる。・・・
建物は、たんに擬態化されるだけのものとなろう。

立方体や角錐や球を用いて建築をつくりだすのは、
人間の偉大な決断力なのであり、
そこからうみだされた建築はプリミティブで、
官能的で、獣的で、おそろしく、力強く支配的であり、それはまた、もっとも微妙な感情の化身、
もっとも複雑な動揺の感覚的デッサン、
強権の実体化である。

 ハンス・ホライン(オーストリア)



ハンス・ホライン

1934年ウィーンに生まれる。
1956年ウィーン美術アカデミーを卒業。
シカゴのイリノイ工科大学(IIT)で学び、
1960年カリフォルニア大学バークレイ校を卒業。
1963~1964年ワシントン大学客員教授。
1967~1976年デュッセルドルフ美術アカデミー教授。
1976~2002年ウィーン応用美術大学教授。
1964年に建築家、プランナー、デザイナーとして独立し、
ヨーロッパ、北米、南米、イラン、ロシア、中国、日本で
様々なプロジェクトをもっている。

近作に、ジェネラリ社メディア・タワー(ウィーン、1994~2001年)、
リマのインターバンク協会本社(ペルー、1996~2002年)、
在ベルリン・オーストリア大使館(1997~2001年)、
オーヴェルニュの火山博物館(フランス、1994~2002年)、
アルベルティーナ美術館の入口およびフロント・エリア(ウィーン、2001~2003年)、
サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノのマスタープランと建築計画(2003年~)など。