建築家アントニオ・ガウディ(スペイン)
創造的たろうとして脇道にそれてはならない。
通常なされていることを観察し、
それをよりよくしようと努力すればそれでよい。
独創とは起源に戻ることである。
人間は決して自由な存在ではない。
でも、人間の意欲の中には自由が存在する。
人の一生を天秤にかけてみれば、
歓びよりも苦しみの方が多いことは明らかだ。
建築家は、生涯苦しい研究と忍耐を
繰り返さなければならない。
人間が作り出すものは、
すでに自然という偉大な書物に書かれている。
人間はこれを読む努力をしなければならない。
アントニオ・ガウディ(スペイン)
生涯
1852年6月25日、カタルーニャ地方のレウスという街に生まれた。
5歳の時、リウマチに罹患した。激しい痛みのため、遠出する際はロバに乗っていたという。このため、自由時間になると家の近所で自然を観察して過していた。こうした幼年期の自然との触れ合いが、自然の造形の観察と分析からデザインを導き出す彼の設計手法に影響を与えたと考えられている。
1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナで建築を学んだ。1878年に建築家の資格を取得している。
前半生の主な作品
太字で示したものは。アントニオ・ガウディの作品群として世界遺産に登録されている。
バルセロナのレアル広場の街灯(1878-1879年)
手袋屋のショーケース(1878年)
パリ万国博覧会に出品。この作品を通じて富豪エウセビオ・グエルの知遇を得た。
マタロの労働組合本部(1878-1882年)
ごく一部ではあるが、ガウディが初めて木材を用いて放物線状のデザインを表現した。
カサ・ビセンス(1883-1885年)
サンタンデールのエル・カプリッチョ(1883-1885年)
グエル別邸のパビリオンと厩舎(1884年)
サグラダ・ファミリアの地下聖堂(1884-1891年)
グエル邸(1886-1889年)
アストルガの司教館(1887-1893年)
テレサ学園(1889-1894年)
サグラダ・ファミリアのアプス外壁(1891-1893年)
レオンのボティネス邸(1891-1892年)
カサ・カルベット(1898-1900年)
コロニア・グエル教会堂(1898-1914年 未完)
グエル公園(1900-1914年)
カサ・バトリョ(1904-1906年)
カサ・ミラ(1905-1907年)
この節は、書きかけです。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
後半生
サグラダ・ファミリアガウディは後半生を熱心なカトリック教徒として過した。1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注いだ。しかし、親族や友人の相次ぐ死によるガウディの仕事の停滞とバルセロナ市が財政危機に見舞われたことによってサグラダ・ファミリアの建設は進まず、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまう。さらに1918年、パトロンのグエルが死去。
この頃の不幸の連続がガウディを変えたと言われている。彼は取材を受けたり写真を撮られるのを嫌うようになり、サグラダ・ファミリアの作業に集中するようになった。
1926年6月8日、ガウディはミサに向かう途中、路面電車に轢かれた。晩年身なりに気をつかわなかったため、貧民の為の病院に運ばれた為に手当てが遅れ、二日後に息を引き取った。享年73。サグラダ・ファミリアは未完成で、現在も工事が続けられている。
設計手法
彼の建築は曲線と細部の装飾を多用した、生物的な建築を得意とし、その独創的なデザインは多くの建築家や芸術家に影響を与えた。その設計手法は独自の構造力学的合理性と物語性に満ちた装飾の二つの側面より成立する。網状の糸に重りを数個取り付け、その網の描く形態を上下反転したものが、垂直加重に対する自然な構造形態だと考え、石工がしり込みするような建築を作らせた。工事中の建物の内部に入って自ら足場を取り除き、身を持って安全性を示そうともした。装飾は形式的なものに留まらず、植物・動物・怪物・人間などをリアルに表現した。
彼は、設計段階で模型を重要視し、設計図をあまり描かなかった。設計図は役所に届ける必要最小限のものを描いたのみである。そのため彼の設計図はあまり残らず、替りに模型が多数残り、現在のサグラダ・ファミリア(聖家族教会)の工事は残された模型を尊重しながら進められている。
サグラダ・ファミリアの設計を目の当たりにした評論家たちは、ガウディに対して「悪魔なのか、天才なのか・・・」とつぶやいていた。
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