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2007年3月31日

建築家フランク・ロイド・ライト




あなたが本当にそうだと信じることは、
常に起こります。
そして、信念がそれを起こさせるのです。

医者は自分のミスを闇に葬ることができるが、
建築家は依頼者に、
ツタ科の植物を植えるように勧めることしかできない。

敷地に特徴となる自然があるのであれば、
住宅が敷地から成長しているかのようにし、
環境と呼応するように形づくりなさい。
そのような自然がない場合は、
自然が機会を与えられた場合に
どうなるであろうかを想定して、
できるだけ静かに、本質的で、有機的にしなさい。

暖炉は家の心臓である。

テレビは目のチューインガムである。

 フランク・ロイド・ライト(アメリカ)






フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright、1867年6月8日 - 1959年4月9日)は、アメリカの建築家。アメリカ大陸と日本に多くの作品を残している。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある。)。


生涯
ウィスコンシン州生まれ。ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学し、シカゴへ向かった。叔父ジェンキンの紹介により、建築家のライマン・シルスビーの事務所で働き始めたが、1年ほどでシルスビーの事務所を辞し、ダンクマール・アドラーとルイス・サリヴァンが共同して設立したアドラー=サリヴァン事務所へと移った。アドラー=サリヴァン事務所ではその才能を見込まれ、事務所における1888年以降のほとんどの住宅の設計を任せられた。ライト自身もサリヴァンをLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬し、生涯にわたりその影響を肯定し続けた。


ロビー邸アドラー=サリヴァン事務所に勤めてもうすぐ7年になろうとした1893年、サリヴァンに事務所での設計業務とは別にアルバイトの住宅設計を行っていたことを知られ、それを咎められたライトはアドラー=サリヴァン事務所を辞し、独立して事務所を構えた。1894年のウィンズロー邸は独立後最初の作品である。独立した1893年から1910年までの17年間に計画案も含め200件近い建築の設計を行い、プレイリースタイル(草原様式 Prairie Style)の作品で知られるようになった。1906年のロビー邸はその代表的作品である。プレイリースタイルの特徴としては、当時シカゴ周辺の住宅にあった屋根裏、地下室などを廃することで建物の高さを抑えたこと、水平線を強調した佇まい、部屋同士を完全に区切ることなく、一つの空間として緩やかにつないだことなどがあげられる。

ヨーロッパの建築様式の模倣である新古典主義が全盛であった当時のアメリカにおいて、プレイリースタイルの作品でもってアメリカの郊外住宅に新しい建築様式を打ち出し、建築家としての評価を受けたライトであったが、この後1935年のカウフマン邸(落水荘)までの間、長い低迷期を迎えることとなる。そのきっかけになった出来事が1904年に竣工したチェニー邸の施主の妻ママー・ボースウィック・チェニーとの不倫関係であった。当時、ライトは1889年に結婚したキャサリン・リー・トビンとの間に6人の子供を設けていた。既にチェニー夫人と恋仲にあったライトは妻キャサリンに離婚を切り出したが、彼女は応じなかった。1909年、42歳であったライトはついに事務所を閉じ、家庭をも捨て、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちを強行する。1911年にアメリカに帰国するまでの2年間に設計活動が行われることはなかったが、その間に滞在したベルリンにおいて、後にライトの建築を広く知らしめ、ヨーロッパの近代建築に大きな影響を与えるきっかけとなったヴァスムート社出版のライト作品集の編集及び監修に関わった。


帝国ホテル旧本館1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声とほとんど来ない設計依頼という危機的状況であった。依然妻は離婚には応じていなかったが、ライトはチェニー夫人との新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にタリアセンの設計を始めた。その後、少しずつではあるが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲った。タリアセンの使用人が突如発狂し建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達を惨殺したのである。現場に出ていたライトは難を逃れたが大きな痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となった。そのような中で依頼が来たのが日本の帝国ホテルの仕事であった。

そのスタイルには変遷もあり、一時はマヤの装飾を取り入れたことがあるが、基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴である。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。

孫娘に、アカデミー賞女優のアン・バクスターがいる。


代表作

オークパークにある自邸と事務所
カウフマン邸/落水荘
グッゲンハイム美術館ライト自邸と事務所 (アメリカ合衆国イリノイ州オークパーク、1889)
ウィンズロー邸(1894)
ラーキン・ビル(1903)
ユニティ教会(1904)
ロビー邸(1906)
ミッドウェー・ガーデン(1913)
タリアセンⅡ(1914)
タリアセンⅢ(1925)
カウフマン邸/落水荘(1935-39)
ジョンソンワックス社(1936-39)
ジョンソン邸(1937)
タリアセン・ウエスト(1937)
ジョンソンワックス研究棟(1944)
グッゲンハイム美術館(1943-59)
ベス・ショーロム・シナゴーグ(ペンシルベニア州エルキンズ・パーク、1954)
マリン郡役所(1957-66)
リトル・ハウスの居間がメトロポリタン美術館に再現。また帝国ホテル玄関のオブジェの一つも展示。
日本国内に現存する作品

帝国ホテル  (1967年に取り壊され、正面玄関部分のみが愛知県犬山市の博物館明治村に移築、1923年)
山邑邸 (現 ヨドコウ迎賓館、兵庫県芦屋市、国の重要文化財、1924年)
自由学園明日館 (共同設計:遠藤新、東京都豊島区、国の重要文化財、1926年)
旧林愛作邸 (現 電通八星苑、東京都世田谷区、非公開、1917年)

2007年3月30日

建築家黒川紀章



日本文化は完璧な共生文化なのです。
50年後の未来社会で、
この共生という文化の概念が世界の標準
となっていても不思議はありません。

異文化に惹かれるのは世界共通の
メンタリティだと思いますが、
日本人がユニークなのは、憧れの外国文化を
積極的に自分達の文化に取り入れてしまうところです。
仮にアメリカの建築家が日本の現代建築に惹かれた
としても、日本文化をアメリカに取り入れようとは
しないと思います。
それに比べると、日本はどうでしょう。

 黒川紀章

2007年3月29日

建築家安藤忠雄




自分の責任において、決定を下し、行動すること。

何かを創りたいと思っても、
データと論理だけでは無理で、
知恵が必要です。

自然に触れることによって
『思い通りに扱えない』ことを学ぶ。

たとえ負けても、次があるならば、
そこに可能性を求めたい。
許される限り、前へ進んでいきたい。

極限状態での可能性の追求が、
本当の意味での創造につながると
私は考えています。

多数に追随すれば必ず自分を見失う。
孤独を恐れず、したいことを続けるしかない。

1960年代は日本にとっての青春だった。

仕事のストレスは、仕事で解消します。

事務所開設後、最初に手がけたのは、
頼まれもせず、街の空き地に自分で勝手に考えた
プロジェクトでしたね。

コンクリートが、単純に私の好みに
一番合っているのと、現代建築を象徴する
最も”ありふれた”材料だからです。

 安藤忠雄



安藤 忠雄(あんどう ただお、1941年9月13日 - )は日本人の建築家。東京大学特別栄誉教授。21世紀臨調特別顧問。打ち放しコンクリートの住宅や商業建築を次々と発表し、一世を風靡した。名声が上がるに従い、博物館・娯楽施設・宗教施設・事務所等、作品の幅は広がり、規模も大きくなるが、逆に初期の小規模建築の持っていた魅力が失われているという見方も有る。 特に関西方面での作品が目立つ。

元プロボクサー(リングネームはグレート安藤。戦歴、23戦13勝3敗7分け)。

略歴
大阪府大阪市港区生まれ。ボクシングの試合で得たファイトマネーなどを手にアメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアを旅行しながら、独学で建築を学ぶ。その頃に、彼が撮影した写真はルイス・カーンの作品集などで使われている。

双生児の兄として生まれる。母の実家、安藤家との約束で、旭区の祖父母に育てられる。双子の弟は北山孝雄。東京で都市コンサルタント業/商品デザイン業-北山創造研究所を経営。3人兄弟で一番下の弟は建築家の北山孝二郎(ピーター・アイゼンマンとのコラボレーションで名を馳せた)。初期の作品(ローズガーデン/1977/神戸市生田区、等)のいくつかは弟、孝雄の所属していた(株)浜野商品研究所(1992年、(株)浜野総合研究所と改名<代表=浜野安宏(セツ・モードセミナー出身)>)と共に実現した。

一般的に独学と知られているが、高校卒業後は長沢節が創った美術学校であるセツ・モードセミナーに参加し、大阪芸術大学への入学歴(後に中退)や、建築事務所での短期勤務歴(最終的に影響を受けた建築家の1人として、都市計画家として主な活動をした水谷穎介氏が挙げられる。)はある。 その後、独学を母体に通信教育等を利用しインテリア/SD等を学ぶ。建築以前の初期作品には関西を中心とした喫茶店等のインテリアデザインが有る。

1969年に安藤忠雄建築研究所を大阪に設立。個人住宅を多く手がけた。「住吉の長屋」(大阪)が高く評価され、大規模な公共建築ではなくごく小さな個人住宅としてはじめて日本建築学会賞を獲得した。以降、コンクリート打ち放しと幾何学的なフォルムによる独自の表現を確立し、世界的な評価を得る。1980年代は関西周辺(特に神戸・北野町、大阪・心斎橋)での商業施設設計や寺院・教会設計が相次ぐが、1990年代以降は公共建築、美術館建築、また全国や海外の仕事も増えている。また、阪神タイガースファンである。今は亡き愛犬は迷子になり、さ迷う所を安藤氏が保護したのだが、元飼い主が現れないので事務所で飼う事になった。名前はコルビュジエに肖りコルと名づけられた。

1987年、イェール大学客員教授に就任する。
1988年、コロンビア大学客員教授に就任する。
1989年、ハーバード大学客員教授に就任する。
1997年、東京大学工学部教授に就任する。
2002年、南カリフォルニア大学客員教授に就任する。
2003年、東京大学を定年退官して、名誉教授となる。
2005年、東京大学から特別栄誉教授の終身称号を授与される。

受賞歴

近つ飛鳥博物館1979年 - 日本建築学会賞(住吉の長屋)
1983年 - 日本文化デザイン賞(六甲の集合住宅ほか)
1985年 - 第5回アルヴァ・アアルト賞
1986年 - 芸術選奨文部大臣賞新人賞(中山邸ほか)
1985年 - 毎日デザイン賞
1987年 - 毎日芸術賞(「六甲の教会」)
1988年 - 第13回吉田五十八賞(城戸崎邸)
1989年 - フランス建築アカデミー大賞
1990年 - 大阪芸術賞
1991年 - アメリカ建築家協会(AIA)名誉会員、アーノルド・ブルンナー記念賞(アメリカ)
1992年 - 第1回カールスベルク建築賞(デンマーク)
1993年 - イギリス王立英国建築家協会(RIBA)名誉会員。日本芸術院賞
1994年 - 第26回日本芸術大賞(「大阪府立近つ飛鳥博物館」)
1995年 - 1995年度プリツカー賞、1994年度朝日賞、第7回国際デザインアワード、フランス文学芸術勲章(シュヴァリエ)
1996年 - 第8回高松宮殿下記念世界文化賞、第1回国際教会建築賞
1997年 - ドイツ建築家協会名誉会員、王立英国建築家協会ロイヤルゴールドメダル(RIBAゴールドメダル)、第4回大阪キワニス賞、フランス文学芸術勲章(オフィシエ)
2002年 - アメリカ建築家協会ゴールドメダル(AIAゴールドメダル)、京都賞思想・芸術部門受賞
2005年 - 国際建築家連合ゴールドメダル(UIAゴールドメダル)

主な作品

サントリーミュージアム

淡路夢舞台 百段苑

淡路夢舞台

兵庫県立美術館

四国村ギャラリー

司馬遼太郎記念館

兵庫県立こどもの館・工作館
1969年 旧国鉄大阪駅周辺再開発計画 - (大阪市北区)
1973年 富島邸 - (大阪府) 現在安藤忠雄建築事務所
1976年 住吉の長屋 - (大阪府) 中庭に屋根が無いので、風雨が入る
1981年 小篠邸 - (兵庫県芦屋市)
1983年 六甲の集合住宅 I - 兵庫県神戸市灘区
 〃   タイムズ I - (京都府)
1984年 フェスティバル - (沖縄県)
1986年 六甲の教会 - (神戸市灘区)
 〃   城戸崎邸 - (東京都)
1987年 ゲストハウスOLD/NEW六甲 - (兵庫県)
1988年 水の教会 - (北海道)
1989年 光の教会 - (大阪府茨木市)
 〃   旧ライカ(アパレル会社)本社ビル - (大阪市住之江区)
 〃   兵庫県立こどもの館 - (兵庫県姫路市)
1991年 姫路文学館 - (兵庫県)
 〃   タイム II - (京都府)
 〃   本福寺水御堂 - (兵庫県)
1992年 セビリア万国博覧会 日本政府館 - (スペイン・セビリア)
 〃   熊本県立装飾古墳館 - (熊本県)
 〃   星の子館 - (兵庫県)
 〃   直島コンテンポラリーアートミュージアム - (香川県直島町)
1993年 ヴィトラセミナーハウス - (ドイツ)
 〃   六甲の集合住宅 II - (兵庫県神戸市)
 〃   兵庫県立看護大学 - (兵庫県明石市)
 〃   かほく市立金津小学校 - (石川県かほく市)
1994年 大阪府立近つ飛鳥博物館 - (大阪府)
 〃   サントリーミュージアム 天保山 - (大阪市港区)
 〃   兵庫県立木の殿堂 - (兵庫県)
 〃   京都府立陶板名画の庭 - (京都府)
 〃   成羽町美術館 - (岡山県)
1995年 ユネスコ 本部 瞑想の空間 - (フランス・パリ)
 〃   直島コンテンポラリーアートミュージアム アネックス - (香川県直島町)
 〃   小海高原美術館 - (長野県南佐久郡)
 〃   長良川国際会議場 - (岐阜県岐阜市)
1996年 大山崎山荘美術館 - (京都府大山崎町)
 〃   姫路市立文学資料館南館 - (兵庫県姫路市)
1997年 FABRICA (ベネトンアートスクール) - (イタリア・トレヴィーゾ)
 〃   TOTOセミナーハウス(兵庫県淡路市)
 〃   アイキャナー/リー邸(アメリカ)
1999年 西宮市貝類館(兵庫県西宮市)
 〃   新潟市立豊栄図書館(新潟県新潟市(旧豊栄市立図書館))
2000年 淡路夢舞台(兵庫県淡路市)
 〃   奇跡の星の植物館( 〃 )
 〃   ピューリッツァー美術館(アメリカ)
2001年 兵庫県立美術館 芸術の館(神戸市中央区)
 〃   アルマーニ・テアトロ(イタリア)
 〃   司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市)
 〃   大阪府立狭山池博物館(大阪府大阪狭山市)
 〃   ユニバーサルシティ駅(JRゆめ咲き線)(大阪市此花区)
2002年 フォートワース現代美術館(アメリカ・テキサス州フォートワース)
 〃   国際子ども図書館(東京都台東区)
 〃   石川県西田幾多郎記念哲学館(石川県かほく市)
 〃   四国村ギャラリー(香川県高松市)
2003年 尾道市立美術館(広島県尾道市)
 〃   加賀市立錦城中学校(石川県加賀市)
2004年 東京アートミュージアム、シティハウス仙川(東京都調布市)
 〃   地中美術館(香川県直島町)
〃   新潟市立葛塚中学校(新潟県新潟市(旧豊栄市))
2006年 表参道ヒルズ(同潤会青山アパート建替え)(東京都渋谷区)
 〃   (新)銀橋(大阪市北区)(デザイン選考委員会の委員長として参加)
 〃   新東京タワー(東京都墨田区)
2007年1月16日 JR熊本駅の新しい駅舎デザイン正式契約 [東京ミッドタウン21_21サイト]

著書
「連戦連敗」安藤忠雄(2001/09/03) 東京大学出版会
「安藤忠雄の美術館・博物館」(2001/02) 美術出版社
「光の教会―安藤忠雄の現場」平松剛(著)(2000/12) 建築資料研究社
「安藤忠雄」フィリップ・ジョディディオ"(著) Philip Jodidio(原著)(2001/06) タッシェンジャパン
「旅―インド・トルコ・沖縄」安藤忠雄(著)(2001/03) 星雲社
「大工道具から世界が見える―建築・民俗・歴史そして文化」西和夫(著)(2001/04) 五月書房
「淡路夢舞台―千年庭園の記録」安藤忠雄(著)(2000/05) 新建築社
「建築を語る」安藤忠雄(著)(1999/06) 東京大学出版会
「建築家たちの20代」東京大学工学部建築学科安藤忠雄研究室(1999/04) TOTO出版
「アンドウ―安藤忠雄・建築家の発想と仕事」松葉一清(著)(1996/09) 講談社
「家」安藤忠雄(著)(1996/07) 住まいの図書館出版局
「現代デザインを学ぶ人のために」嶋田厚(著)(1996/06) 世界思想社
「建築家という生き方―27人が語る仕事とこだわり」安藤忠雄(著)日経アーキテクチュア(2001/08) 日経BP社
「直島コンテンポラリーアートミュージアム」安藤忠雄・三宅理一(著)(1996/09) 鹿島出版会
「安藤忠雄の夢構想―震災復興と大阪湾ベイエリアプロジェクト」安藤忠雄(著)(1995/10) 朝日新聞社
「サントリーミュージアム天保山」安藤忠雄・三宅理一(著)(1995/10) 鹿島出版会
「壁の探究―安藤忠雄論」古山正雄(著)(1994/11) 鹿島出版会
「安藤忠雄ディテール集」安藤忠雄(著)二川幸夫(著)(1994/07) A.D.A.Edita Tokyo
「安藤忠雄3」安藤忠雄(著)SD編集部(1993/11) 鹿島出版会
「安藤忠雄の都市彷徨」**安藤忠雄(著)(1992/05) マガジンハウス
「安藤忠雄(1981‐1989)」SD編集部(編集)(1990/12) 鹿島出版会
「安藤忠雄―挑発する箱」日本の建築家編集部(著)(1986/01) 丸善
「交感スルデザイン」安藤忠雄(著)(1985/09) 六耀社
「安藤忠雄のディテール―原図集 六甲の集合住宅・住吉の長屋」安藤忠雄(著)(1984/01) 彰国社
「安藤忠雄」安藤忠雄(著) SD編集部(1982/03) 鹿島出版会
「360映像で見る現代建築 安藤忠雄」日経BP出版センター

2007年3月28日

建築家アントニン・レーモンド

建築はsimple、natural、economical、direct、
そしてhonestでなければならない。

 アントニン・レーモンド(オーストリア)

プラハ工科大学で学んだ。第1次世界大戦に従軍した後アメリカに渡り、ライトの事務所に入所。1919年帝国ホテル設計施工の助手として来日。1922年独立し、レーモンド事務所を開設する。ライトの影響が余りに強烈であったため、そこから抜け出すのに苦労したという。聖路加国際病院などの設計をフォイエルシュタイン(Bedřich Feuerstein オーギュスト・ペレの弟子)と共同で行ったほか、ル・ランシーの教会堂(ペレの代表作)をコピーした東京女子大学礼拝堂を建設した。ペレを介してライトの影響から逃れ、モダニズム建築の最先端の作品を生み出すようになった。

前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなどの建築家がレーモンド事務所で学んだ。1937年に僧院宿舎建設のため、インドに向かった後、日本を取り巻く国際情勢が緊迫悪化したため、一時アメリカに帰る。アメリカ軍少将カーチス・ルメイは焼夷弾の効果を検証する実験のため、砂漠に東京下町の木造家屋の続く街並みを再現したが、この際、日本家屋のデータを提供したのはレーモンドであった。ナチス・ドイツの母国チェコへの迫害と、帰米前に受けた外国人排斥と日本の軍国主義化に対する鬱憤のためであったという説もある。この実験は東京大空襲などで生かされた。(戦後、この点を一部の日本人建築家らから批判を受ける。)

第2次世界大戦後の1947年にダム建設予定地の調査のため再度来日。その後、新たに事務所を開設し、モダニズムの理念に基づく秀作を多く残している。








作品

夏の家(1933年)
群馬音楽センターを背後から東京女子大学総合計画(東京都杉並区/1921年)
霊南坂の家(東京都港区/1923年/現存しない)
聖心女子学院 修道院および教室(東京都港区/1924年)
旧星商業学校(現 星薬科大学/東京都品川区/1924年)
エリスマン邸(横浜市中区/1926年/元町公園内に移築)
小林聖心女子学院本館(兵庫県宝塚市/1927年/登録有形文化財登録)
旧ライジングサン石油会社社宅(現 フェリス女学院10号館/横浜市中区/1927年)
旧イタリア大使館日光別邸(栃木県日光市/1928年)
聖路加国際病院(1928年/装飾のないデザインが不評を買い、レーモンドは建設途中で解雇。J.V.W.バーガミニーが引継いで完成させた。)
トレッドソン邸 (栃木県日光市/1930年)
アメリカ大使公邸(東京都港区/1931年)
夏の家(長野県軽井沢町/1933年/移築後、現 ペイネ美術館)。ル・コルビュジエの計画案を取り入れ、コルビュジエから盗作だと指摘を受けた(後に和解)。
小寺別邸(長野県軽井沢町/1934年)
旧聖ポール教会(現 聖パウロカトリック教会/長野県軽井沢町/1934年)
東京女子大学礼拝堂及び講堂(東京都杉並区/1934年)
ポンディシェリーの僧院宿舎(インド/1937年)
ニューホープの家(アメリカ/1939年)
リーダーズダイジェスト東京支社(1949年/現存しない/現在の毎日新聞東京本社、パレスサイドビルの位置に所在)
レーモンド自邸(麻布笄町の家)(1950年/現存しない/この作品を模範に建設された旧井上房一郎邸(高崎市)がある。(現高崎哲学堂))
レーモンドホール(三重県津市/1951年/登録有形文化財登録)
カニンガム邸(東京都港区/1953年)
聖アンセルモ目黒教会(東京都目黒区/1954年)
聖アルバン教会(東京都港区/1955年)
群馬音楽センター(1958年)
立教新座高等学校 校舎および聖パウロ礼拝堂(埼玉県新座市/1961年)
札幌聖ミカエル教会(札幌市東区/1961年)
軽井沢の新スタジオ(長野県軽井沢町/1962年)
南山大学総合計画(名古屋市昭和区/1962年)
新発田カソリック教会(新潟県新発田市/1962年)
神言神学院(名古屋市昭和区/1964年)




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2007年3月27日

建築家アントニオ・ガウディ(スペイン)


創造的たろうとして脇道にそれてはならない。
通常なされていることを観察し、
それをよりよくしようと努力すればそれでよい。

独創とは起源に戻ることである。

人間は決して自由な存在ではない。
でも、人間の意欲の中には自由が存在する。

人の一生を天秤にかけてみれば、
歓びよりも苦しみの方が多いことは明らかだ。

建築家は、生涯苦しい研究と忍耐を
繰り返さなければならない。

人間が作り出すものは、
すでに自然という偉大な書物に書かれている。
人間はこれを読む努力をしなければならない。

 アントニオ・ガウディ(スペイン)



生涯
1852年6月25日、カタルーニャ地方のレウスという街に生まれた。

5歳の時、リウマチに罹患した。激しい痛みのため、遠出する際はロバに乗っていたという。このため、自由時間になると家の近所で自然を観察して過していた。こうした幼年期の自然との触れ合いが、自然の造形の観察と分析からデザインを導き出す彼の設計手法に影響を与えたと考えられている。

1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナで建築を学んだ。1878年に建築家の資格を取得している。


前半生の主な作品
太字で示したものは。アントニオ・ガウディの作品群として世界遺産に登録されている。

バルセロナのレアル広場の街灯(1878-1879年)
手袋屋のショーケース(1878年)
パリ万国博覧会に出品。この作品を通じて富豪エウセビオ・グエルの知遇を得た。
マタロの労働組合本部(1878-1882年)
ごく一部ではあるが、ガウディが初めて木材を用いて放物線状のデザインを表現した。
カサ・ビセンス(1883-1885年)
サンタンデールのエル・カプリッチョ(1883-1885年)
グエル別邸のパビリオンと厩舎(1884年)
サグラダ・ファミリアの地下聖堂(1884-1891年)
グエル邸(1886-1889年)
アストルガの司教館(1887-1893年)
テレサ学園(1889-1894年)
サグラダ・ファミリアのアプス外壁(1891-1893年)
レオンのボティネス邸(1891-1892年)
カサ・カルベット(1898-1900年)
コロニア・グエル教会堂(1898-1914年 未完)
グエル公園(1900-1914年)
カサ・バトリョ(1904-1906年)
カサ・ミラ(1905-1907年)
この節は、書きかけです。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

後半生

サグラダ・ファミリアガウディは後半生を熱心なカトリック教徒として過した。1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注いだ。しかし、親族や友人の相次ぐ死によるガウディの仕事の停滞とバルセロナ市が財政危機に見舞われたことによってサグラダ・ファミリアの建設は進まず、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまう。さらに1918年、パトロンのグエルが死去。

この頃の不幸の連続がガウディを変えたと言われている。彼は取材を受けたり写真を撮られるのを嫌うようになり、サグラダ・ファミリアの作業に集中するようになった。

1926年6月8日、ガウディはミサに向かう途中、路面電車に轢かれた。晩年身なりに気をつかわなかったため、貧民の為の病院に運ばれた為に手当てが遅れ、二日後に息を引き取った。享年73。サグラダ・ファミリアは未完成で、現在も工事が続けられている。


設計手法
彼の建築は曲線と細部の装飾を多用した、生物的な建築を得意とし、その独創的なデザインは多くの建築家や芸術家に影響を与えた。その設計手法は独自の構造力学的合理性と物語性に満ちた装飾の二つの側面より成立する。網状の糸に重りを数個取り付け、その網の描く形態を上下反転したものが、垂直加重に対する自然な構造形態だと考え、石工がしり込みするような建築を作らせた。工事中の建物の内部に入って自ら足場を取り除き、身を持って安全性を示そうともした。装飾は形式的なものに留まらず、植物・動物・怪物・人間などをリアルに表現した。

彼は、設計段階で模型を重要視し、設計図をあまり描かなかった。設計図は役所に届ける必要最小限のものを描いたのみである。そのため彼の設計図はあまり残らず、替りに模型が多数残り、現在のサグラダ・ファミリア(聖家族教会)の工事は残された模型を尊重しながら進められている。

サグラダ・ファミリアの設計を目の当たりにした評論家たちは、ガウディに対して「悪魔なのか、天才なのか・・・」とつぶやいていた。




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2007年3月26日

日本と海外との比較

欧米では建築家個人の作家性や学際性の問題と、実務上の資格・責任・経験の問題とが一体となっているのに対し、日本ではいまだばらばらである。現在までJIAが中心となり、国際水準に合わせるため建築家としての統一資格制度の整備を試行してきたが難行している。

また、欧米では、建築家の社会的な自立性・中立性保持の観点から、専業の設計・監理以外で収益や給料を得る者(ゼネコンの設計部、不動産・広告代理業の企画設計部門、大学の研究者など)は、たとえ建築に携わっていようと「建築家」としては認めていない(但し、大学教授など、一定の職能資格を有し、学外において設計実務を兼任している場合はこの限りではない)。また「設計・監理」と「施工」とは互いにプロフェッションとして独立している(設計と施工の分離)。対して日本では、教育と実務、設計・監理と施工の分離が明確に規定されてこなかった。このため、現在、入札方式や設計料ダンピングの問題などが浮上している。

米国
米国では、建築家と認められるためにはいくつかの試験に合格し、登録料を支払う必要がある。なお、米国の建築家は資格取得までに実施前提の建築設計に携わることを含む8年間の実務経験を必要とされる。建築家協会 (American Institute of Architects、AIA) は建築家に保証・保険などのサービスとネットワークを提供する職能団体である。身分証明にAIA を付記することは、この会員建築家にのみ許される。とはいえ、AIA メンバーでなければ建築家ではない、という訳ではなく、AIAに所属しない建築家も多い。

英国
RIBA(王立英国建築家協会、Royal Institute of British Architects)の定めでは、「建築家」としての資格取得までに、特定の教育研修機関でのディプロマ取得と一定期間の実務経験を有することとしている。これは最短でも大学院以上の履修課程を含め6年間かかる(日本やアメリカの「学部」に相当するものを入れると8年以上)が、最短で取得できる者はまれである。ヨーロッパのディプロマ制度・実務資格も、これに準拠している。(参照:RIBAゴールドメダル)


ゼネコン設計部
日本では明治時代後半から清水組などの大手建設会社が大学出の学士を採用するようになり、自社で設計から施工までを一貫して行う体制を整えてきた。この点は西欧流に設計と施工の分離を唱える立場からは問題視され、戦前の「建築士法」制定運動の中では、施工会社が設計を行うことを禁止しようという主張も見られた。しかし、現在の日本でも大手ゼネコンの抱える設計部は建築界において大きな位置を占めており、評価の高い作品も多く生み出している。


プロフェッサー・アーキテクト
大学で建築教育を行いながら、実際の設計に関わるものをいう。日本では、古くは東大の伊東忠太や早稲田の佐藤功一らの例があるが、特に東大の内田祥三は営繕課長を兼ねて安田講堂を含むキャンパス計画を作成し、教え子を育てながら大学のグランドデザインを実現させていった。第二次世界大戦後も丹下健三、芦原義信、吉田五十八、吉村順三などプロフェッサー・アーキテクトの例は多い。単なる理論のみでなく実務に関わることは研究上・教育上も必要であり、学生に設計実務を示すことができるなどのメリットがあるとされる。

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2007年3月25日

建築家の地位

建築家の地位

【欧米】
欧米における建築家は、伝統的に医師・弁護士と共にプロフェッション(公益のために働く専門家)として扱われており、構造・設備などの技術者(エンジニア)とは区別される。

中世ヨーロッパにも大聖堂を築いた工匠は存在していたが、建築技術者は一般に職人と見られていた。建築家の地位が確立ししたのはルネサンス期以降で、建築家の名前が作品とともに伝えられるようになった。15世紀イタリアのブルネレスキが建築家の始めとされる。当時、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)に世界最大のドーム屋根をかけることが課題となっていたが、巨大な足場が必要になるため、建設は非常に困難と見られていた。ブルネレスキはこの課題に合理的な解決をもたらし、足場を築かずにドームを造る方法を提案して、ドームの建設にあたった。また、万能の天才といわれた人文主義者アルベルティは『建築論』を著し、学問的に建築学を位置づけた。これらの人物の活動によって、次第に職人とは異なり、高い教養と科学的知識を持つ建築家の職能が確立していった。ルネサンス期以降、建築家は主に社会的な事業に関わる芸術家として尊敬を集めてきた。


【日本】
現在の日本においては、必ずしも「建築家」の明確な定義がされてなく、たとえ国家資格である建築士の資格を取得している人でも一割以外は設計の経験がない。そのため、米国やヨーロッパなどにみられるような建築家としての地位は存在してなく、あくまでも個人の自称に留まっているのが現実である。


【日本の「建築家」】
日本では伝統的に設計と施工を兼ねる大工棟梁がいた。幕末・明治初期に洋風建築を造った大工棟梁として二代目清水喜助(清水組)らが知られる。Architectの概念は、明治時代以降に輸入されたもので、まずは明治政府が雇用したお雇い外国人トーマス・ウォートルスやジョサイア・コンドルらが活躍した。次いで官立大学を中心に西欧の建築学が導入された。東京駅の設計で知られる辰野金吾は工部大学校(後の東京大学工学部)1期生である。

Architectureは当初「造家」と訳され、1886年に工部大学校卒業生を中心に「造家学会」が設立された。やがて伊東忠太による提案を受け、1897年に建築学会(現日本建築学会)と改称した。伊東は、「造家」では技術的な要素が強すぎるので、芸術的な要素を強調するため「建築」という名称を主張したものであった。しかし、建築学会にはやはり技術的な側面が強く、純粋な建築家のみでなく、施工側の建設会社も参加する団体となっていた。これに対する反発として、大正時代に日本建築士会と関西建築協会が結成された。日本建築士会は設計と施工の分離を主張し、西欧のArchitectに相当する地位を確立すべく、「建築士法」制定運動を起こした。1925年に「建築士法」案が議会に提出されたが、建築界の反対もあって成立を見なかった。

第二次世界大戦後の1950年、建築士法が成立し、国家資格としての「建築士」制度が誕生した。(名称は同じだが)その内容は戦前期に提案されたものと異なっており、建築士=Architect(建築家)という訳ではない。現在に至るも、日本では「建築家」として認められるための公的認定機関は存在せず、それに代わる資格認定機関も存在しないのが実状である。

このため「建築家」の明確な定義はないが、一般的には(1)建築関連の何らかの賞を受賞した人物や、(2)著名建築物の設計等で広く名前が知られた人物を建築家と呼ぶことが多い。一般メディアは「一級建築士」で権威付けすることが多いが、業界内では、「建築家」という呼称が作家性の存在を示唆する。新建築、GA JAPAN、建築文化などのメディアを作品発表の場とする人がいわゆる有名建築家とされることが多いが、優れた設計を行っている建築家の中には、メディアに登場しない(したがらない)者もいる。

実務上は、国家資格である「建築士」を擁した登録事務所でなければ一定規模の建築を設計・監理することはできない。その一方で上記のように、「建築家」という資格制度そのものは整備されておらず、それを名乗るのに免許証や資格証等の証明が不要である。自身では資格がなくとも、スタッフに有資格者を置くことで建築家と名乗ることも可能ではある。

社団法人日本建築家協会では建築家を職業の一つとして扱い建築家職能原則に従い、同協会への入会資格を以下のように定めている。

専業で建築設計監理業務を行なう者
前記業務を行なう組織の主宰者または協同者
責任ある立場で設計監理業務を行なっている者
前記の立場に相当し公的資格を持つ者(建築士)
国際設計競技などでは、UIA(国際建築家連合)の会員資格を求められるものが多いが、日本ではJIA(日本建築家協会)に所属することでUIA資格保持に準拠するものとしている。


【職能団体】
(順不同)

国際建築家連合 (UIA)
日本建築学会
日本建築家協会 (JIA)
日本建築士事務所協会連合会
各都道府県、建築士事務所協会(事務所協会)
日本建築士連合会(士会連合)
各都道府県、建築士会(士会)
国際建築精算協会
日本アーキテクテュラル・レンダラーズ協会
日本建築仕上学会

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