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2007年4月28日

建築家レム・コールハース

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建築は本質的にナンセンスで、独断的で、
見せかけだけであり、それを誇るべきである。

仮に人間が宇宙に撒き散らした廃棄物を
スペースジャンクとしたら、ジャンクスペースとは
人類がこの惑星にもたらした残留物である。

 レム・コールハース(オランダ)



レム・コールハース(Rem Koolhaas、1944年11月17日 - )は、オランダのロッテルダム生まれの建築家。ジャーナリストおよび脚本家としての活動の後、ロンドンにある英国建築協会付属建築専門大学(通称AAスクール)で学び建築家となった。彼は自分の建築事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)とその研究機関であるAMOの所長である。またハーバード大学大学院デザイン学部における“建築実践と都市デザイン”の教授でもある。

彼は実際の建築物より著作物の方が知られている。代表作である『錯乱のニューヨーク』や、1995年にグラフィックデザイナーのブルース・マオと競作した『S,M,L,XL』など、建築理論に関する影響力の強い本は有名である。彼は建築作品や著作物において、一方では建築の素材を生かすこと・ヒューマンスケールの維持・注意深く練られた建築意図などヒューマニストとしての理想を守るために戦うという規範を守ろうとしているが、他方では、物質経済・人間のサイズをはるかに超えたスケールの建築・雑然とした設計意図の建物の乱立など、急速にグローバル化する資本主義社会の流れに興味を持ち、この流れに身を任せようという規範も持っている。この正反対の規範が起こす矛盾を、断固許容しようという姿勢を彼は貫いている。2003年には『content』という安価な雑誌形式の本が出版され、過去十年間のOMAのプロジェクト、試み、動向、そして世界的な経済発展を振り返る内容となっている。

コールハースは調査と図表を賢明に用いることによって、前例の無い形状や関係へと突き進む都市の絶対的な力について、現代社会の文脈に沿ってまとめている。プラダのような大規模なブランドを例にして「ショッピング」を知的満足として考察する一方で、珠江デルタなど現代中国の諸都市の無秩序な状態や密集化は「パフォーマンス」、すなわち密度、新しさ、形、大きさ、金銭等の議論の余地ある確実性を伴った変数を含む基準によって分析される。容赦ない生(なま)の取り組みを通して、コールハースは建築家を死滅した職業という不安から引き抜き、一瞬でも現代の極致に復活させることを望んでいる。



作品

カーサ・デ・ムジカウィキメディア・コモンズに、レム・コールハースに関連するマルチメディアがあります。ネザーランド・ダンス・シアター (ハーグ,オランダ,1987)
ユーラリール (Euralille、リール,フランス,1988)
ネクサスワールド レム・コールハース棟 (福岡,日本,1991)
ヴィラ・ダラヴァ (パリ,フランス,1991)
クンストハル (ロッテルダム,オランダ,1992)
コングレクスポ(リール・グラン・パレ) (リール,フランス,1994)
エデュカトリアム (Educatorium、ユトレヒト,オランダ,1997)
ボルドーの家 (ボルドー,フランス,1998)
グッゲンハイム美術館 (ラスベガス,米国,2001)
オランダ大使館 (ベルリン,ドイツ,2002)
マコーミック・トリビューン・キャンパス・センター (イリノイ工科大学,シカゴ,米国,2003)
プラダ (ニューヨーク,2003,ロサンゼルス,2004)
シアトル中央図書館 (シアトル,米国,2004)
カーサ・ダ・ムジカ (Casa da Música、ポルト,ポルトガル,2004)
イウム、サムスン美術館新館(Leeum, Samsung Museum of Art、ソウル,韓国,2004)
中国中央電視台本部ビル (北京,中国,2004着工)
Milstein Hall (コーネル大学,ニューヨーク,米国,もうすぐ着工)

受賞
2000年 プリツカー賞
2004年 RIBAゴールドメダル



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2007年4月22日

建築家 隈研吾


負けることから独創が生まれる。

建築家っていうのは社会の敵だよ。
勝手なことやってるものすごい身勝手な連中だと
思われてる、普通には。でも、まあ逆にそれを
跳ね除けたときには、ものすごい社会に喜んで
もらえる仕事ができるわけだからね。

建築にはこうして欲しいなって言ってるとか
そういう敷地の声を聞くわけ。
そういうような事にどうやって答えてやって、
それを建築に反映してやれるかっていうのが
僕らの技の見せ所でね。それにはまず、
声をきかなきゃいけなくて、これはどうして
ほしがってんのかな?この場所は、
って聞くわけですね。

負けることでプロジェクトを強くして
いきたいですね。

がんじがらめの中にいろんなヒントが
あるんじゃないかなって思うんですよね。

制約を楽しむっていうのが人生の中で
上手いやり方な気がする。

プロフェッショナルというのは
同じことを二度しない人。

私にとっての理想の建築とは、建物に気を取られず、
まるで自然の中にいるような感じになるものです。

安全性とは安心感だと思います。
したがって、心の平穏を保つ自然な素材であり、
特殊な技術や建物の強度とは別だと思うのです。

技術的なことはもちろん、
設計した建築が持つ哲学が最終的に問われる世界。
その建築にかける自分の思い、こだわり、
その土地と自分の設計した建築の接点。
それらは、数字でのみ語られるものではない。
哲学のない建築は人の心を動かさない。

僕は図面を書くときは、
手紙だと思って書けといってるんです。

 隈研吾




隈 研吾(くまけんご、1954年-)は日本の建築家。神奈川県出身。

栄光学園高等学校、東京大学工学部建築学科卒。同大学院建築意匠専攻修了。日本設計、戸田建設に勤務後コロンビア大学客員研究員などを経て隈研吾建築都市設計事務所を設立。慶應義塾大学理工学部教授。

初期はM2(自動車のショールーム)など古典主義建築を引用したポストモダン建築を手がけていたが、その後、竹の家など自然素材を生かした建築を提案している。 近年、格子を多用したデザインが特徴的な作品が多く見られる。

愛知万博では会場・パビリオンの設計に携わっていた(会場計画プロジェクトチーム)が、自然保護団体の反対で度々計画が縮小したため、辞任した。

慶應理学部教授 隈研吾



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建築家ブルーノ・タウト



泣きたくなる様な美しさ、
永遠の美、ここにあり。

われ日本文化を愛す。
それは実に涙ぐましいまで美しい。

 ブルーノ・タウト(ドイツ)



ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880年5月4日-1938年12月24日)は、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。

ジャポニズム、アールヌーボーを通して日本に関心をもつ。

1909年、ベルリンで建築設計事務所開業、ライプチヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、1914年のドイツ工作連盟ケルン展での「ガラス・パヴィリオン」、1924年から携わったブリッツジードルンク(住宅団地)で国際的な評価を受ける。 1930年、ベルリンにあるシャルロッテンブルグ工科大学の教授に就任。

タウトは1932年,1933年にソ連で活動し、そのためナチスの台頭と共に親ソ連派とされてスイスに移動、その後日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年5月に日本に亡命した。

日本では、井上房一郎の招きにより高崎の群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。1935年に東京・銀座に開店した「ミラテス」で販売を始める。また東京・日本橋の丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」開催した。建築の機会は多くなかったが、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の日向別邸でインテリアデザインを行った。

1936年にトルコのイスタンブール芸術アカデミーからの招請により、イスタンブールに移住。国会議事堂の設計などで活躍したが、1938年にイスタンブールで死去した。


その他
桂離宮と日光東照宮を対比させ、前者に日本の伝統美を見出し、『ニッポン』『日本美の再発見』などを著した。数寄屋造りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えた。
日向別邸は熱海市に寄贈され、2005年から公開されている。ちなみに母屋の設計は渡辺仁。
高崎市の少林山達磨寺にはブルーノ・タウトが暮らした住居(洗心亭)が残っている。



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2007年4月16日

建築家ルイス・バラカン


建築とは空間的であると共に音楽的なものだ。
その音楽は水によって奏でられる。

静けさは人間の苦悩や恐れを
癒してくれる真の薬である。
現代における建築家の使命は
静けさにあふれた住まいをつくることなのだ。

 ルイス・バラカン(メキシコ)

2007年4月14日

建築家フンデルトヴァッサー


直線は私たちの文明を没落へと導く。

 フンデルトヴァッサー(オーストリア)

フリードリヒ・シュトヴァッサー(Friedrich Stowasser)、より一般的にはフリーデンスライヒ・フンダートヴァッサー(Friedensreich Hundertwasser. 1928年12月15日 - 2000年2月19日)はオーストリアの芸術家、画家、建築家。

日本では「フンデルトヴァッサー」という呼び方も多く用いられる。日本語での号は姓を直訳した「百水」。色鮮やかな外見の建築でよく知られる。

ウィーンのユダヤ系の家庭に生まれ、ウィーン美術アカデミーで学んだ彼は1981年から母校の教授をつとめた。

自然を愛した彼は、建築でも自然への回帰を唱え、曲線を多用した独自の様式を編み出した。 晩年をすごしたニュージーランドへ向かう客船上で死去した。

日本での作例に、東京放送|TBSの「21世紀カウントダウン時計」(東京都赤坂、1992年)、キッズプラザ大阪の「こどもの街」(大阪市北区、1997年)や、大阪市環境局舞洲工場(大阪市此花区、ゴミ処理場、2001年)がある。

2007年4月13日

建築家ハンス・ホライン


建築家は建物のみにかかわる思考を
停止せねばならない。

建築、彫刻、絵画はひとつのものになる。
空間の全体性は、ものによって支配させる。

建築は感じさせるものだ。
・・・建物は完全に情報となる。・・・
建物は、たんに擬態化されるだけのものとなろう。

立方体や角錐や球を用いて建築をつくりだすのは、
人間の偉大な決断力なのであり、
そこからうみだされた建築はプリミティブで、
官能的で、獣的で、おそろしく、力強く支配的であり、それはまた、もっとも微妙な感情の化身、
もっとも複雑な動揺の感覚的デッサン、
強権の実体化である。

 ハンス・ホライン(オーストリア)



ハンス・ホライン

1934年ウィーンに生まれる。
1956年ウィーン美術アカデミーを卒業。
シカゴのイリノイ工科大学(IIT)で学び、
1960年カリフォルニア大学バークレイ校を卒業。
1963~1964年ワシントン大学客員教授。
1967~1976年デュッセルドルフ美術アカデミー教授。
1976~2002年ウィーン応用美術大学教授。
1964年に建築家、プランナー、デザイナーとして独立し、
ヨーロッパ、北米、南米、イラン、ロシア、中国、日本で
様々なプロジェクトをもっている。

近作に、ジェネラリ社メディア・タワー(ウィーン、1994~2001年)、
リマのインターバンク協会本社(ペルー、1996~2002年)、
在ベルリン・オーストリア大使館(1997~2001年)、
オーヴェルニュの火山博物館(フランス、1994~2002年)、
アルベルティーナ美術館の入口およびフロント・エリア(ウィーン、2001~2003年)、
サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノのマスタープランと建築計画(2003年~)など。

2007年4月8日

建築家ガウディの作品

アントニオ・ガウディの作品を動画で紹介します。


社団法人日本建築家協会のページへ

建築家とは何者か?ということに丁寧に答えているページです。建築家の資格制度、催し物についての案内もしています。

2007年4月7日

建築家ヴァルター・A・グロピウス

デッサウのバウハウス


専門家とは、
いつも同じ間違いを繰り返す人たちのことである。

人の心とは傘のようなものだ。
開いたときにもっとも機能する。

あらゆる造形活動の最終目標は建築である。

 ヴァルター・A・グロピウス(ドイツ)

ヴァルター・アードルフ・ゲオルク・グロピウス(Walter Adolph Georg Gropius, 1883年5月18日-1969年7月5日)は、モダニズムを代表するドイツの建築家。近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に)の一人とされる。バウハウスの創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めた。


生涯
1883年5月18日、ベルリンに生まれる。カルル・フリードリッヒ・シンケルの弟子であったマルティン・グロピウスの大甥に当たる。

1903-1907年にミュンヘンやベルリンの工科大学で建築を学んだ。卒業後、ペーター・ベーレンスの事務所に入り(1908-1910年)、ドイツ工作連盟にも参加した。1911年の作品、ファグスの靴工場は、後のバウハウス校舎を思わせる初期モダニズム建築であった。1915年、ヴァン・デ・ヴェルデからワイマール(ヴァイマル)の工芸学校を託された。後に統合され国立バウハウスが開校すると、グロピウスが初代校長になった。当初は総合芸術としての建築教育を目指すものであったが、カンディンスキーらのアヴァンギャルドな造形教育の場となった。ワイマール・バウハウス校長室のインテリア(1923年)は、モダンデザインによって統一された空間であり、記念碑的作品とされる。


デッサウのバウハウスやがてワイマールのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転、デッサウ市立バウハウスとなった。デッサウの校舎(1926年)はグロピウスの設計によるもので、著書『国際建築』(1925年、バウハウス叢書第1巻)とともにモダニズム建築の代表作として世界中に知られるようになった。また、デッサウ市の依頼で、郊外に集合住宅(ジードルンク)を建設した(1926-1928年)。グロピウスは1928年に校長を退いた。1930年頃にはベルリンの集合住宅建設に当たった。


グロピウス・ハウス(マサチューセッツ州リンカーン)バウハウス閉鎖後、1934年イギリスに亡命、1937年、ハーバード大学に招かれ、アメリカに赴いた。ここでI.M.ペイ、フィリップ・ジョンソンらを育てた。また、共同設計事務所TAC(The Architects Collaborative)を設立。超高層ビルのパンナムビル(1958年、現メットライフビル。ピエトロ・ベルスキらと共同設計)などを設計した。

1969年7月5日、マサチューセッツ州ボストンにて86歳で死去。


評価
グロピウスが著書『国際建築』で主張した発想がもとになり、1930年代にアメリカで提唱されたインターナショナル・スタイル(国際様式)が生まれた。そのグロピウスの主張とは、造形は機能に従うものであり、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらすというものである。グロピウスの手になる1926年の「バウハウス校舎」は、まさにその実例となることを意図して設計された。

なお、アメリカ移住後のグロピウスの実作品はそれほど多くないが、大学教育を通じてアメリカにおけるモダニズム建築の普及に多大な影響力を持った。超高層ビルにおけるインターナショナル・スタイルの普及は、ミースやSOMの手にゆだねられた。

2007年4月6日

建築家ルイス・カーン

都市とは、小さな子どもが歩いていくと、
将来一生をかけてやろうとするものを教えてくれる
何かに出会う、そんなところだ。

空間の造形とは、光の造形だ。

創造とは、逆境の中でこそ見出されるもの。

人は哲学書を読んで、哲学者になるのではない。
決してそうではない。
人は生まれながらにして哲学者なのだと私は思う。

過去の建築家たちにより造られた建物に対して
敬意を込めて述べる。
かつてあったものは常にあったものである。
今あるものも、常にあったものであり、
いつかあるであろうものも、常にあったものである。
ビギニングスとはこの事だ。

自然でもつくれない物を、
人間はつくることができるのだ。

 ルイス・カーン(アメリカ)



ルイス・カーン

ルイス・イザドア・カーン(Louis Isadore Kahn, 1901年2月20日 - 1974年3月17日)は、アメリカ合衆国の著名な建築家で、都市計画立案者、大学教授。彼の活動の主眼は、公共建築である。彼は野獣主義(Brutalismus)の代表者の1人でもある。

生涯
1901年 ロシア帝国(当時)のエストニア地方のサーレマー島に、ユダヤ人の父レオポルド、同じく母ベルサの間の2男1女の長男として生まれる。
1904年 父レオポルトが単身でアメリカに移住。
1906年 家族とともに渡米後、フィラデルフィアに定住した。
1924年 ペンシルバニア大学美術学部建築学科卒業。その後彼はヨーロッパに旅に出て、その際、彼はフランスのカルカッソンヌを訪れる。
1925年-26年 ジョン・モリトールの事務所に勤務。フィラデルフィア万国博の主席デザイナーに就任。その後は、当時よく知られた建築家たちと共に仕事をし、再度ヨーロッパに出かける。
1929年-30年 ポール・クレの事務所に勤務。
1935年 自らの建築事務所を開き、居住建築プロジェクトを立ち上げる。
1937年 フィラデルフィア住宅局顧問建築家
1939年 アメリカ合衆国住宅局顧問建築家
1947年-57年 イエール大学で教鞭をとる。イエール大学アートギャラリーを手がけ、フィラデルフィアの都市計画・交通スタディにも携わる。
1957年-74年 フィラデルフィアのペンシルバニア大学に移る。ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟で注目を集め、事実上のデビューを果たす。
1974年 インドのアーメダバードからの帰途、ニューヨークのペンシルバニア駅の男性用トイレで心臓発作のため亡くなり、数日後発見された。享年73。

業績

イェール大学アートギャラリー
ソーク研究所
キンベル美術館
バングラデシュ国会議事堂
ルイス・カーンは、しばしば最後の巨匠と呼ばれる。 それは、構造と意匠が高度な必然性の高みで融合し、その精神性を専門家だけでなく、広く一般にまで感受させることのできた建築を作り続けた最後の例だからである。

カーンは最初、ローコストの公共住宅などを手がけ、イエール大学アートギャラリーで初めてチャンスを得る。 四角錐のグリッド・パターンによるスペース・フレーム(スラブ)で、ブルータルな表情を見せたが、外観は素材と工法においてきわめてオーソドックスなモダニズム様式である。 カーンは、建築素材の扱い方において慎重であり、素材はその本性に沿ってのみ扱われるべきだと信じていた。

ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟で、いわゆる彼の言うところの「サーブド・スペース」(サポートされる機能空間)と「サーバント・スペース」(サポートする機能空間)が試され、階段室、排気、給気ダクトが納められた4本のシャフトが鋭く起立するデザイン的完成度で建築界の注目を集めるも、設備的完成度の未熟さもあって、使い心地は悪かった。 その経験も踏まえ、満を持して取り組んだのが、カリフォルニア州ラ・ホヤのソーク生物学研究所である。 これは、ポリオ・ワクチンの開発で有名な細菌学者のジョナス・ソーク博士がリチャーズ医学研究棟を見て感銘を受け、「芸術家のピカソを招いてもいいような研究所を」という彼の肝いりで始まったものである。 リチャーズでは縦に割れていた「サーブド・スペース」「サーバント・スペース」の関係性が、ここでは設備的には上下2層に分かれ、さらには共同作業を行う実験室と明確に分けられる形で、居住性に配慮した個人研究用の個室を、中庭に面して左右対称に、45度の角度で重なり合いながら横に張り出させている。 そしてその外観を、明るい砂色のコンクリートに良くマッチした窓枠のチーク材の生成りの色合いとのツートーンで際立たせつつ、印象的なファサードを形作ることに成功した。

実は、この傑出した中庭は、そのデザイン処理に最後まで悩んだカーンが、建築家であり友人でもあったのもう一人のルイス、すなわちメキシコのバラガンのアドバイスを頼んだことによるものである。 伝えられるところによると、相談を受け現地に立ったバラガンは即座に「ここには何も置くべきではない。ただのプラザになるべきだ。そうすればここは空へのファサードになるだろう」と言い、カーンもまたすぐにそのデザイン意図を理解したという。 カリフォルニアの明るい太陽の下、中庭の真ん中に穿たれた浅く細い水路の先に、広大な太平洋を望むランドスケープは、カーン建築のなかの嚆矢である。

以後、バングラデシュとインドで国家的プロジェクトに携わるも、カーンの作品の中での白眉といえば、テキサス州フォートワースに建つキンベル美術館であろう。 カマボコ形のコンクリート・ボールトの屋根を戴いた細長いユニットがおよそ3×6の配置で並べられた建物は、実業家で熱心な美術収集家であったケイ・キンベル夫妻の私的コレクションの為に計画された。 ボールト屋根の頂部にうがたれたトップライトからの自然光は、アルミ製のパンチングメタルの反射板で受けとめられ、銀色の間接光で満たされて光輝くコンクリート打ち放しの天井面を作り出す。 その柔らかな光は、地上ではここでしか見ることのできない性質のものである。

いわゆるコンクリート打ち放しを、建築デザインとして用いたのはフランスのオーギュスト・ペレが最初であるが、それをモダニズムの美学として発展させる取り組みは、日本が世界で最も早く、アントニン・レーモンドを経て、後に日本のお家芸と言われるまでになる。 カーンのコンクリート打ち放しによる柱梁表現も、丹下健三の初期3部作(広島ピースセンター・旧東京都庁・香川県庁舎)に影響を受けたのではないかとする向きもあるが、その細部に至るまで緻密な表現は、エンジニアのオーギュスト・コマンダントの協力もあって、カーン独自の美学的完成度をみせている。

しかしながら、モダニズムの禁欲的な原則にのっとって、構造と素材が厳しく幾何学的形体として操作され、そのディテールの精度とプロポーションの確かさにも関わらず、出来上がった時からもうすでにどこか廃墟の風情をたたえるカーンの建築は、しばしばアナクロニズム(時代錯誤)とも評される。 荘厳にして冷ややかな、神亡き機械時代の神殿を築いたかのようでもある。

カーンはまた、哲学的な建築論でも知られ、その言葉はしばしば深淵で神学的な響きを帯びた。 その教えをペンシルバニア大学でじかに受けた建築家の中に香山壽夫がいる。


作品
イエール大学アートギャラリー (1951-1953)
ミル・クリーク団地(1952-1953、1959-1962)
ユダヤ・コミュニティーセンター (1954-1959)
トリビューン・レヴュー・ビル(1958-1961)
マーガレット・エシェリック邸 (1959-1961)
リチャーズ医学生物学研究場 (1959-1965)
ソーク研究所 (1959-1965)
ノーマン・フィッシャー邸 (1960-1967)
ブリンモア大学エルドマン・ホール (1960-1965)
ファースト・ユニタリアン教会(1959-1967)
バングラディッシュ首都大学、議事堂 (1962-1974)
インド経営大学 (1962-1974)
フィリップ・エクスター・アカデミー図書館 (1965-1972)
オリヴェッティ=アンダーウッド工場(1966-1970)
キンベル美術館 (1966-1972)
イエール大学英国美術研究センター (1969-1974)
スティーヴン・コーマン邸 (1971-1973)

栄誉
1965年 デンマーク建築家協会からメダル。
1971年 アメリカ建築研究所(AIA)から金メダル。
1972年 イギリスの王立建築研究所(RIBA)から金メダル。

2007年4月5日

建築家ル・コルビュジエ


住宅は住むための機械である。

ニューヨークの摩天楼は小さすぎる。

機能はデザインに一致する。

新しい精神がある。それは
明晰な概念に導かれた建築と統合の精神である。

新しい精神が培われるのは
実用性を追求する工業生産においてだ。

近代建築上における重要な課題は
幾何学によって解決される。

経済性を理解し計算力を備えたエンジニアは
私達の時代と世の中を調和に導いてくれる。

建築は光のもとで繰り広げられる
巧みで正確で壮麗なヴォリュームの戯れである。

美しさは装飾ではなく自然の秩序にこそ宿る。

芸術は心を込めて美を追求することだが
装飾は表面的な外観を手軽につくろうものだ。

人を思いやり喜びを与えるように考えて
建物をつくるのが建築家の使命だ。

人が機械に操られることなく使いこなすには
自然に還るべし。

住宅は生活の宝石箱。幸せをつくる機械だ。

 ル・コルビュジエ(スイス-フランス)



ル・コルビュジエ



ル・コルビュジエ(Le Corbusier、1887年10月6日 - 1965年8月27日)はスイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(Charles-Edouard Jeanneret)。フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある。)。


経歴
スイスのラ・ショー・ド・フォンに時計職人の父エデゥアールとピアノ教師の母マリーの次男として生まれた。本来は時計職人を養成する地元の装飾美術学校で学んだ彼は、大学における正規の建築家教育を受けていない。1908年にパリへ行き、鉄筋コンクリート造の先駆者であるオーギュスト・ペレの事務所に、1910年にはドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所に籍を置き、建築を学んだ。1911年から半年をかけてベルリンから東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを巡る東方への旅へ出た。ラ・ショー・ド・フォンの美術学校で教鞭を執った後、1914年に鉄筋コンクリートによる住宅建設方法であるドミノシステムを発表。1917年にパリへ戻り、1920年にダダの詩人のポール・デルメ、ピュリスムの画家のアメデ・オザンファンと共に雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」(L'esprit Nouveau)を創刊、この頃からル・コルビュジエというペンネームを用いた。

1922年に従兄弟のピエール・ジャンヌレとともに事務所を構えた。1925年のパリ万国博覧会(いわゆるアールデコ博)では装飾のないモダニズム建築のエスプリ・ヌーヴォー館を担当、アール・デコ様式の展示館が並ぶ中で異彩を放った。また同年、パリ市街を超高層ビルで建て替えようという都市改造案を発表した。低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的であるとするもので、もちろんパリでは採用されなかったが、これ以降の各国の都市計画に大きな影響を与えた(「輝く都市」)。 1927年、ドイツ工作連盟主催の住宅展に参加。


サヴォア邸1928年以降に開催されたCIAM(Congrès International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)[1]では、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエらとともに参加し、中心メンバーとして活躍した。CIAMは国際的な近代建築運動の拠点になった。1931年竣工のサヴォア邸はル・コルビュジエの主張する近代建築の5原則を典型的に示し、代表作として知られる。またル・コルビュジエの、「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」という言葉はよく引用される。

第二次世界大戦後、ドミノシステムに基づく集合住宅マルセイユのユニテ・ダビタシオン(L'unité d'habitation de Marseille)を建設(1947年-1952年)。ユニテは住居単位を意味し、かつて主張した「輝く都市」の実践であった。また1951年からはインドのチャンディーガルの建築顧問として都市計画に関わった。


ロンシャン教会後期の代表作ロンシャンの教会堂(1955年竣工)はカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、鉄筋コンクリートで可能になった自由な造形を示している。ここでは従来主張していた機能性・合理性とは異なった表現に達した。

1965年南フランスのカプ・マルタンで水泳中に死去。


評価
画家から出発し、建築家として活動をはじめた後も画家としての制作活動を続けていた。

歴史上の功績は、鉄筋コンクリートを利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性をモットーとしたモダニズム建築の提唱者ということになる。彼の思想は世界中に浸透したが、特に1920年代の近代主義建築の成立において、造形上に果たした功績が大きい。彼の造形手法は一つの規範となり、世界に広がって1960年代に一つのピークを極めた。(その反動から1980年代には装飾過多、伝統回帰的なポストモダン建築も主張されている)

西洋では石積みなどが伝統的だったが、コルビュジエはスラブ、柱、階段のみが建築の主要要素だとするドミノシステムを考案した。その後の代表作サヴォア邸は、コルビュジエの主張する「新しい建築の5つの要点(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)」(近代建築の五原則)を体現している。クック邸が5つの要点を体現した最初の作品であり、サヴォア邸でより完成度の高い実例を示した。

都市計画の分野でもパリ改造計画案を発表したほか、CIAM 第4回会議でル・コルビュジエらが提案したアテネ憲章(1933年)は、公開空地など、以後の都市計画理論に多大な影響を与えた。後にはチャンディーガルなどで実践している。 終始モダニズムの論客として、新しいビジョンを示す論陣を張ってきた彼は、実作においては自由な芸術家としての立場を貫き、必ずしも常に論理性を重視しているとはいえない。しかし、作品の独創性や新規性により、そうした矛盾を問題視させない能力があったといえる。その点は大いに誤解されたままであるが、ある意味で本人が意図した通りなのである。晩年のロンシャン教会(ノートルダム・デュ・オー礼拝堂)は造形を特に強調し、それまで主張していたモダニズム建築からかけ離れた作品として注目される。

単純な構成で快適さを求めたコルビュジエの家具は、GRAND CONFORT(大いなる快適)と呼ばれLC3、LC4(椅子)は有名である。

1997年4月から発行されている10スイス・フラン札には彼の肖像と作品が描かれている。


建築作品
1923年 ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸
1925年 小さな家
1926年 クック邸
1929年 サヴォア邸
1952年 マルセイユのユニテ・ダビタシオン
1955年 ロンシャン教会
1959年 東京国立西洋美術館(基本設計) 
フランスからの松方コレクション返還に際して建設された。コルビュジエは設計のため一度来日し、基本設計をまとめた。実施設計は弟子の前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が担当した。
1960年 ラ・トゥーレット修道院

[編集] 著作等
建築へ(建築をめざして)1923
今日の装飾芸術 1925
住宅と宮殿 1928
輝く都市(邦訳:鹿島出版会SD選書)1935
新しき芸術
伽藍が白かつたとき(邦訳:岩波書店)1937
モデュロール1 1948
モデュロール2 1955

2007年4月2日

建築家ミース・ファン・デル・ローエ


少なきことは、より豊か。

神は細部に宿る。

建築は空間に翻訳された時代の意志である。

 ミース・ファン・デル・ローエ(ドイツ-アメリカ)




ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe、1886年3月27日、アーヘン - 1969年8月17日、シカゴ)は20世紀のモダニズム建築を代表するドイツの建築家。ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある。)。"Less is more."(より少ないことは、より豊かなこと)という標語で知られ、近代主義建築のコンセプトの成立に貢献した建築家である。自由な間取りのユニヴァーサル・スペースという概念を提示した。


略歴と主要作品

ファンズワース邸ミースは、ドイツのアーヘンに、石工の息子として生まれた。大学で正式な建築教育を受けることなく、1908年から1912年まで建築家ペーター・ベーレンスの事務所にドラフトマンとして在籍し建築を学んだ。1927年、ドイツ工作連盟主催のシュトゥットガルト住宅展に参加し、ベーレンス、グロピウス、ル・コルビュジエ、ブルーノ・タウトらとともに、実験的な集合住宅を建設した。


バルセロナ・チェア1929年のバルセロナ万国博覧会で建設されたドイツ館、バルセロナ・パヴィリオンは、鉄とガラスで構成され、大理石の壁を配したもの。モダニズムの空間を実現したものとして建築史上有名。また、同館のためにミースがデザインしたバルセロナ・チェアは、モダンデザインの傑作として知られる。パヴィリオンは博覧会終了後に取り壊されたが、1986年に同じ場所に復元され、ミース・ファン・デル・ローエ記念館となっている。

ヴァルター・グロピウスの推薦で1930年からバウハウスの第3代校長を勤めた。ナチスによってバウハウスが閉鎖(1933年)されたため、アメリカに亡命した。シカゴのアーマー大学(後のイリノイ工科大学(IIT))に招かれ、クラウン・ホールをはじめとする同大学のキャンパス計画も手がけた。

四方をガラスの壁で囲んだファンズワース邸(1950年・アメリカ)も代表作の一つ。イリノイに週末別荘として建てられたもので、建設費が当初予算を大幅に超えたため、訴訟沙汰になったがミースが勝訴した。2003年にオークションに出され、ナショナルトラストが取得。ユネスコ世界遺産に登録された。


シーグラムビル超高層ビルの実作品として、ニューヨークのシーグラムビル(1958年竣工)があるが、モダニズムの超高層ビルの中では、SOMのレバー・ハウス(1952年竣工)と並んで、最もすぐれたデザインの超高層ビルともいわれている。




ミース・ファン・デル・ローエ