tag:blogger.com,1999:blog-26142056662155597132007-12-11T20:13:16.862+09:00世界の建築家の言葉hoshi-yokohamanoreply@blogger.comBlogger19125tag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-57728911565056644012007-05-06T16:01:00.000+09:002007-12-06T21:40:25.954+09:00東孝光<a href="http://hoshiyokohama.jugem.jp/"target="_blank">ダイエット・ゴルフ上達法・FX・育毛剤等お得情報のページへ</a><br /><a href="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rj1-vs3W8nI/AAAAAAAAAPU/bxy-un85ZZk/s1600-h/023.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rj1-vs3W8nI/AAAAAAAAAPU/bxy-un85ZZk/s320/023.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5061340914196607602" /></a><br />美しい空間は、人々の夢のなかに、いつでも存在する。 <br />建築家は、それを引き出し、具体的に展開し、 <br />その人たちに見せてあげればよいのだ。 <br />それは、彼等の内部から生まれたものだ。 <br /><br />結局は単純素朴で質がよく、 <br />飽きがこない最小限の設備や空間を整えること。 <br />その上で、その最小限を使いこなしての工夫の中に、 <br />楽しさやその家庭の個性が出てくるものと心得るべし、 <br />ということだろうか。 <br /><br /><a href="http://www.google.co.jp/ig?hl=ja"target="_blank">Googleへ</a><br /><br /> 東孝光<br /><br />東 孝光(あずま・たかみつ)/建築家<br />1933 大阪市に生まれる<br />     大阪大学工学部構築工学科を卒業,郵政省建築部,坂倉準三建築研究所を経て<br />1968 東孝光建築研究所を設立<br />1985 大阪大学工学部環境工学科教授<br />1995 「一連の都市住宅」で日本建築学会賞作品賞を受賞<br />     現在 千葉工業大学教授,大阪大学名誉教授<br /><br />主な作品  <br /><br />「粟辻邸」,「赤塚邸」,「さつき保育園」,「ワットハウス」など<br /><br />主な著書<br /><br />『都市住居の空間構成』<br />『住まいと子供の居場所100章』(鹿島出版会)<br />『「塔の家」白書 6坪に住んだ20年』(住まいの図書館出版局)<br /><br /><a href="http://www.google.co.jp/ig?hl=ja"target="_blank">Googleへ</a><br /><a href="http://www.gaiheki-japan.com/"target="_blank">横浜の星通商のブログ </a><br /><a href="http://hoshi-yokohama.com/"target="_blank">トップページへ</a><br /><a href="http://hoshiyokohama.jugem.jp/"target="_blank">横浜とくとく情報ブログ</a><br /><a href="http://hoshi3864.blog116.fc2.com/"target="_blank">収入+副収入=ゆとり</a><br /><a href="http://zatsugaku.gaiheki-japan.com/"target="_blank">横浜雑学王</a><br /><a href="http://blogs.yahoo.co.jp/hoshi2513864">ヤフーブログ</a>hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-49929748396711150892007-04-28T09:09:00.000+09:002007-05-06T14:32:53.203+09:00建築家レム・コールハース<a href="http://hoshi-yokohama.com/mail/mail-15.html"target="_blank">お問合せはこちらまで</a><br /><a href="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RjKSac3W8gI/AAAAAAAAAOk/ISbsU4m_USo/s1600-h/230px-Rem_Koolhaas.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RjKSac3W8gI/AAAAAAAAAOk/ISbsU4m_USo/s320/230px-Rem_Koolhaas.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5058266314613125634" /></a><br /><br />建築は本質的にナンセンスで、独断的で、 <br />見せかけだけであり、それを誇るべきである。 <br /><br />仮に人間が宇宙に撒き散らした廃棄物を <br />スペースジャンクとしたら、ジャンクスペースとは <br />人類がこの惑星にもたらした残留物である。 <br /><br /> レム・コールハース(オランダ)<br /><br /><a href="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RjKSK83W8fI/AAAAAAAAAOc/ZkzZbcjqPrc/s1600-h/230px-McCormick_Tribune_060304.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RjKSK83W8fI/AAAAAAAAAOc/ZkzZbcjqPrc/s320/230px-McCormick_Tribune_060304.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5058266048325153266" /></a><br /><br />レム・コールハース(Rem Koolhaas、1944年11月17日 - )は、オランダのロッテルダム生まれの建築家。ジャーナリストおよび脚本家としての活動の後、ロンドンにある英国建築協会付属建築専門大学(通称AAスクール)で学び建築家となった。彼は自分の建築事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)とその研究機関であるAMOの所長である。またハーバード大学大学院デザイン学部における“建築実践と都市デザイン”の教授でもある。<br /><br />彼は実際の建築物より著作物の方が知られている。代表作である『錯乱のニューヨーク』や、1995年にグラフィックデザイナーのブルース・マオと競作した『S,M,L,XL』など、建築理論に関する影響力の強い本は有名である。彼は建築作品や著作物において、一方では建築の素材を生かすこと・ヒューマンスケールの維持・注意深く練られた建築意図などヒューマニストとしての理想を守るために戦うという規範を守ろうとしているが、他方では、物質経済・人間のサイズをはるかに超えたスケールの建築・雑然とした設計意図の建物の乱立など、急速にグローバル化する資本主義社会の流れに興味を持ち、この流れに身を任せようという規範も持っている。この正反対の規範が起こす矛盾を、断固許容しようという姿勢を彼は貫いている。2003年には『content』という安価な雑誌形式の本が出版され、過去十年間のOMAのプロジェクト、試み、動向、そして世界的な経済発展を振り返る内容となっている。<br /><br />コールハースは調査と図表を賢明に用いることによって、前例の無い形状や関係へと突き進む都市の絶対的な力について、現代社会の文脈に沿ってまとめている。プラダのような大規模なブランドを例にして「ショッピング」を知的満足として考察する一方で、珠江デルタなど現代中国の諸都市の無秩序な状態や密集化は「パフォーマンス」、すなわち密度、新しさ、形、大きさ、金銭等の議論の余地ある確実性を伴った変数を含む基準によって分析される。容赦ない生(なま)の取り組みを通して、コールハースは建築家を死滅した職業という不安から引き抜き、一瞬でも現代の極致に復活させることを望んでいる。<br /><br /><a href="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RjKSEs3W8eI/AAAAAAAAAOU/n2QOaFfyEYU/s1600-h/230px-SCL.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RjKSEs3W8eI/AAAAAAAAAOU/n2QOaFfyEYU/s320/230px-SCL.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5058265940950970850" /></a><br /><br />作品<br /> <br />カーサ・デ・ムジカウィキメディア・コモンズに、レム・コールハースに関連するマルチメディアがあります。ネザーランド・ダンス・シアター (ハーグ,オランダ,1987) <br />ユーラリール (Euralille、リール,フランス,1988) <br />ネクサスワールド レム・コールハース棟 (福岡,日本,1991) <br />ヴィラ・ダラヴァ (パリ,フランス,1991) <br />クンストハル (ロッテルダム,オランダ,1992) <br />コングレクスポ(リール・グラン・パレ) (リール,フランス,1994) <br />エデュカトリアム (Educatorium、ユトレヒト,オランダ,1997) <br />ボルドーの家 (ボルドー,フランス,1998) <br />グッゲンハイム美術館 (ラスベガス,米国,2001) <br />オランダ大使館 (ベルリン,ドイツ,2002) <br />マコーミック・トリビューン・キャンパス・センター (イリノイ工科大学,シカゴ,米国,2003) <br />プラダ (ニューヨーク,2003,ロサンゼルス,2004) <br />シアトル中央図書館 (シアトル,米国,2004) <br />カーサ・ダ・ムジカ (Casa da Música、ポルト,ポルトガル,2004) <br />イウム、サムスン美術館新館(Leeum, Samsung Museum of Art、ソウル,韓国,2004) <br />中国中央電視台本部ビル (北京,中国,2004着工) <br />Milstein Hall (コーネル大学,ニューヨーク,米国,もうすぐ着工) <br /><br />受賞<br />2000年 プリツカー賞 <br />2004年 RIBAゴールドメダル <br /><br /><object width="425" height="350"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/5ZEq6Qj-cCM"></param><param name="wmode" value="transparent"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/5ZEq6Qj-cCM" type="application/x-shockwave-flash" wmode="transparent" width="425" height="350"></embed></object><br /><br /><a href="http://www.gaiheki-japan.com/"target="_blank">トップページへ</a><br /><a href="http://hoshi-yokohama.com/"target="_blank">ホームページへ</a>hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-78848993843713517222007-04-22T18:30:00.000+09:002007-04-28T18:11:08.979+09:00建築家 隈研吾<a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RisscA71D1I/AAAAAAAAAN8/FB3uGcxGO5g/s1600-h/9701834_d2.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RisscA71D1I/AAAAAAAAAN8/FB3uGcxGO5g/s320/9701834_d2.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5056183866452414290" /></a><br />負けることから独創が生まれる。 <br /><br />建築家っていうのは社会の敵だよ。 <br />勝手なことやってるものすごい身勝手な連中だと <br />思われてる、普通には。でも、まあ逆にそれを <br />跳ね除けたときには、ものすごい社会に喜んで <br />もらえる仕事ができるわけだからね。 <br /><br />建築にはこうして欲しいなって言ってるとか <br />そういう敷地の声を聞くわけ。 <br />そういうような事にどうやって答えてやって、 <br />それを建築に反映してやれるかっていうのが <br />僕らの技の見せ所でね。それにはまず、 <br />声をきかなきゃいけなくて、これはどうして <br />ほしがってんのかな?この場所は、 <br />って聞くわけですね。 <br /><br />負けることでプロジェクトを強くして <br />いきたいですね。 <br /><br />がんじがらめの中にいろんなヒントが <br />あるんじゃないかなって思うんですよね。 <br /><br />制約を楽しむっていうのが人生の中で <br />上手いやり方な気がする。 <br /><br />プロフェッショナルというのは <br />同じことを二度しない人。 <br /><br />私にとっての理想の建築とは、建物に気を取られず、 <br />まるで自然の中にいるような感じになるものです。 <br /><br />安全性とは安心感だと思います。 <br />したがって、心の平穏を保つ自然な素材であり、 <br />特殊な技術や建物の強度とは別だと思うのです。 <br /><br />技術的なことはもちろん、 <br />設計した建築が持つ哲学が最終的に問われる世界。 <br />その建築にかける自分の思い、こだわり、 <br />その土地と自分の設計した建築の接点。 <br />それらは、数字でのみ語られるものではない。 <br />哲学のない建築は人の心を動かさない。 <br /><br />僕は図面を書くときは、 <br />手紙だと思って書けといってるんです。 <br /><br /> 隈研吾<br /><br /><a href="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RissVg71D0I/AAAAAAAAAN0/hFiy-C-C0ow/s1600-h/9701834_d3.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RissVg71D0I/AAAAAAAAAN0/hFiy-C-C0ow/s320/9701834_d3.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5056183754783264578" /></a><br /><br /><br />隈 研吾(くまけんご、1954年-)は日本の建築家。神奈川県出身。<br /><br />栄光学園高等学校、東京大学工学部建築学科卒。同大学院建築意匠専攻修了。日本設計、戸田建設に勤務後コロンビア大学客員研究員などを経て隈研吾建築都市設計事務所を設立。慶應義塾大学理工学部教授。<br /><br />初期はM2(自動車のショールーム)など古典主義建築を引用したポストモダン建築を手がけていたが、その後、竹の家など自然素材を生かした建築を提案している。 近年、格子を多用したデザインが特徴的な作品が多く見られる。<br /><br />愛知万博では会場・パビリオンの設計に携わっていた(会場計画プロジェクトチーム)が、自然保護団体の反対で度々計画が縮小したため、辞任した。<br /><br /><a href="http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2005/09/1027.html"target="_blank">慶應理学部教授 隈研吾</a><br /><br /><a href="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RitgNw71D3I/AAAAAAAAAOM/BGVj-pEbG14/s1600-h/kenchikuka.jpg"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RitgNw71D3I/AAAAAAAAAOM/BGVj-pEbG14/s320/kenchikuka.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5056240796243922802" /></a><br /><br /><a href="http://www.gaiheki-japan.com/"target="_blank">トップページへ</a><br /><a href="http://hoshi-yokohama.com/"target="_blank">ホームページへ</a>hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-26996084359761722252007-04-22T14:16:00.001+09:002007-04-28T18:11:55.389+09:00建築家ブルーノ・タウト<a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RirwnQ71DzI/AAAAAAAAANs/G09byuI0azQ/s1600-h/200px-%25E3%2583%2596%25E3%2583%25AB%25E3%2583%25BC%25E3%2583%258E%25E3%2583%25BB%25E3%2582%25BF%25E3%2582%25A6%25E3%2583%2588.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RirwnQ71DzI/AAAAAAAAANs/G09byuI0azQ/s320/200px-%25E3%2583%2596%25E3%2583%25AB%25E3%2583%25BC%25E3%2583%258E%25E3%2583%25BB%25E3%2582%25BF%25E3%2582%25A6%25E3%2583%2588.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5056118089028276018" /></a><br /><br />泣きたくなる様な美しさ、 <br />永遠の美、ここにあり。 <br /><br />われ日本文化を愛す。 <br />それは実に涙ぐましいまで美しい。 <br /><br /> ブルーノ・タウト(ドイツ)<br /><br /><a href="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rirwhg71DyI/AAAAAAAAANk/x9DepajeV40/s1600-h/Glaspavillon.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rirwhg71DyI/AAAAAAAAANk/x9DepajeV40/s320/Glaspavillon.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5056117990244028194" /></a><br /><br />ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880年5月4日-1938年12月24日)は、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。<br /><br />ジャポニズム、アールヌーボーを通して日本に関心をもつ。<br /><br />1909年、ベルリンで建築設計事務所開業、ライプチヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、1914年のドイツ工作連盟ケルン展での「ガラス・パヴィリオン」、1924年から携わったブリッツジードルンク(住宅団地)で国際的な評価を受ける。 1930年、ベルリンにあるシャルロッテンブルグ工科大学の教授に就任。<br /><br />タウトは1932年,1933年にソ連で活動し、そのためナチスの台頭と共に親ソ連派とされてスイスに移動、その後日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年5月に日本に亡命した。<br /><br />日本では、井上房一郎の招きにより高崎の群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。1935年に東京・銀座に開店した「ミラテス」で販売を始める。また東京・日本橋の丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」開催した。建築の機会は多くなかったが、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の日向別邸でインテリアデザインを行った。<br /><br />1936年にトルコのイスタンブール芸術アカデミーからの招請により、イスタンブールに移住。国会議事堂の設計などで活躍したが、1938年にイスタンブールで死去した。<br /><br /><br />その他<br />桂離宮と日光東照宮を対比させ、前者に日本の伝統美を見出し、『ニッポン』『日本美の再発見』などを著した。数寄屋造りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えた。 <br />日向別邸は熱海市に寄贈され、2005年から公開されている。ちなみに母屋の設計は渡辺仁。 <br />高崎市の少林山達磨寺にはブルーノ・タウトが暮らした住居(洗心亭)が残っている。<br /><br /><a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RirwdQ71DxI/AAAAAAAAANc/sW6Q07yUtRY/s1600-h/200px-Hufeisensiedlung.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RirwdQ71DxI/AAAAAAAAANc/sW6Q07yUtRY/s320/200px-Hufeisensiedlung.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5056117917229584146" /></a><br /><br /><a href="http://www.gaiheki-japan.com/"target="_blank">トップページへ</a><br /><a href="http://hoshi-yokohama.com/"target="_blank">ホームページへ</a>hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-35350197090208510502007-04-16T20:06:00.000+09:002007-04-16T20:14:02.603+09:00建築家ルイス・バラカン<a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RiNab0SOgUI/AAAAAAAAALY/6JGmZpwfFZ4/s1600-h/brkoen.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RiNab0SOgUI/AAAAAAAAALY/6JGmZpwfFZ4/s320/brkoen.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5053982640777888066" /></a><br />建築とは空間的であると共に音楽的なものだ。 <br />その音楽は水によって奏でられる。 <br /><br />静けさは人間の苦悩や恐れを <br />癒してくれる真の薬である。 <br />現代における建築家の使命は <br />静けさにあふれた住まいをつくることなのだ。 <br /><br /> ルイス・バラカン(メキシコ)hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-36838305621415450872007-04-14T21:32:00.000+09:002007-04-14T21:41:52.543+09:00建築家フンデルトヴァッサー<a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RiDLEkSOgDI/AAAAAAAAAJU/uCpSm0DoK-Y/s1600-h/120px-Darmstadt-Waldspirale-Hundertwasser3.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RiDLEkSOgDI/AAAAAAAAAJU/uCpSm0DoK-Y/s320/120px-Darmstadt-Waldspirale-Hundertwasser3.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5053262061229735986" /></a><br />直線は私たちの文明を没落へと導く。 <br /><br /> <a href="http://homepage1.nifty.com/spacekids/wasser.html"target="_blank">フンデルトヴァッサー</a>(オーストリア)<br /><br />フリードリヒ・シュトヴァッサー(Friedrich Stowasser)、より一般的にはフリーデンスライヒ・フンダートヴァッサー(Friedensreich Hundertwasser. 1928年12月15日 - 2000年2月19日)はオーストリアの芸術家、画家、建築家。<br /><br />日本では「フンデルトヴァッサー」という呼び方も多く用いられる。日本語での号は姓を直訳した「百水」。色鮮やかな外見の建築でよく知られる。<br /><br />ウィーンのユダヤ系の家庭に生まれ、ウィーン美術アカデミーで学んだ彼は1981年から母校の教授をつとめた。<br /><br />自然を愛した彼は、建築でも自然への回帰を唱え、曲線を多用した独自の様式を編み出した。 晩年をすごしたニュージーランドへ向かう客船上で死去した。<br /><br />日本での作例に、東京放送|TBSの「21世紀カウントダウン時計」(東京都赤坂、1992年)、キッズプラザ大阪の「こどもの街」(大阪市北区、1997年)や、大阪市環境局舞洲工場(大阪市此花区、ゴミ処理場、2001年)がある。<br /><br /><object width="425" height="350"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/xHvQX_05QWM"></param><param name="wmode" value="transparent"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/xHvQX_05QWM" type="application/x-shockwave-flash" wmode="transparent" width="425" height="350"></embed></object>hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-70610902103989208322007-04-13T22:48:00.000+09:002007-04-28T18:12:11.066+09:00建築家ハンス・ホライン<a href="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rh-M8kSOgCI/AAAAAAAAAJM/pvJ0uWPEWiQ/s1600-h/114-04-hans0003.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rh-M8kSOgCI/AAAAAAAAAJM/pvJ0uWPEWiQ/s320/114-04-hans0003.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5052912279093149730" /></a><br />建築家は建物のみにかかわる思考を <br />停止せねばならない。 <br /><br />建築、彫刻、絵画はひとつのものになる。 <br />空間の全体性は、ものによって支配させる。 <br /><br />建築は感じさせるものだ。 <br />・・・建物は完全に情報となる。・・・ <br />建物は、たんに擬態化されるだけのものとなろう。 <br /><br />立方体や角錐や球を用いて建築をつくりだすのは、 <br />人間の偉大な決断力なのであり、 <br />そこからうみだされた建築はプリミティブで、 <br />官能的で、獣的で、おそろしく、力強く支配的であり、それはまた、もっとも微妙な感情の化身、 <br />もっとも複雑な動揺の感覚的デッサン、 <br />強権の実体化である。 <br /><br /> ハンス・ホライン(オーストリア) <br /><br /><br /><br />ハンス・ホライン<br /><br />1934年ウィーンに生まれる。<br />1956年ウィーン美術アカデミーを卒業。<br />シカゴのイリノイ工科大学(IIT)で学び、<br />1960年カリフォルニア大学バークレイ校を卒業。<br />1963~1964年ワシントン大学客員教授。<br />1967~1976年デュッセルドルフ美術アカデミー教授。<br />1976~2002年ウィーン応用美術大学教授。<br />1964年に建築家、プランナー、デザイナーとして独立し、<br />ヨーロッパ、北米、南米、イラン、ロシア、中国、日本で<br />様々なプロジェクトをもっている。<br /><br />近作に、ジェネラリ社メディア・タワー(ウィーン、1994~2001年)、<br />リマのインターバンク協会本社(ペルー、1996~2002年)、<br />在ベルリン・オーストリア大使館(1997~2001年)、<br />オーヴェルニュの火山博物館(フランス、1994~2002年)、<br />アルベルティーナ美術館の入口およびフロント・エリア(ウィーン、2001~2003年)、<br />サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノのマスタープランと建築計画(2003年~)など。hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-73097312679356289622007-04-08T16:44:00.000+09:002007-04-08T17:39:33.558+09:00建築家ガウディの作品アントニオ・ガウディの作品を動画で紹介します。<br /><object width="425" height="350"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/K0rMG-WUPh8"></param><param name="wmode" value="transparent"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/K0rMG-WUPh8" type="application/x-shockwave-flash" wmode="transparent" width="425" height="350"></embed></object><br /><br /><a href="http://www.jia.or.jp/"target="_blank">社団法人日本建築家協会のページへ</a><br /><br />建築家とは何者か?ということに丁寧に答えているページです。建築家の資格制度、催し物についての案内もしています。hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-33556092525602554642007-04-07T12:49:00.000+09:002007-04-08T17:39:49.852+09:00建築家ヴァルター・A・グロピウスデッサウのバウハウス<br /><a href="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhcYSS06N4I/AAAAAAAAAIk/at2t94wZiYg/s1600-h/250px-Bauhaus_dessau.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhcYSS06N4I/AAAAAAAAAIk/at2t94wZiYg/s320/250px-Bauhaus_dessau.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5050532209689769858" /></a><br /><a href="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhcYNi06N3I/AAAAAAAAAIc/vH05ZU-ngN4/s1600-h/150px-Walter_Gropius_Foto_1920.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhcYNi06N3I/AAAAAAAAAIc/vH05ZU-ngN4/s320/150px-Walter_Gropius_Foto_1920.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5050532128085391218" /></a><br />専門家とは、 <br />いつも同じ間違いを繰り返す人たちのことである。 <br /><br />人の心とは傘のようなものだ。 <br />開いたときにもっとも機能する。 <br /><br />あらゆる造形活動の最終目標は建築である。 <br /><br /> <a href="http://www.youtube.com/watch?v=Y52N_HWXGzI"target="_blank">ヴァルター・A・グロピウス(ドイツ)</a><br /><br />ヴァルター・アードルフ・ゲオルク・グロピウス(Walter Adolph Georg Gropius, 1883年5月18日-1969年7月5日)は、モダニズムを代表するドイツの建築家。近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に)の一人とされる。バウハウスの創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めた。<br /><br /><br />生涯<br />1883年5月18日、ベルリンに生まれる。カルル・フリードリッヒ・シンケルの弟子であったマルティン・グロピウスの大甥に当たる。<br /><br />1903-1907年にミュンヘンやベルリンの工科大学で建築を学んだ。卒業後、ペーター・ベーレンスの事務所に入り(1908-1910年)、ドイツ工作連盟にも参加した。1911年の作品、ファグスの靴工場は、後のバウハウス校舎を思わせる初期モダニズム建築であった。1915年、ヴァン・デ・ヴェルデからワイマール(ヴァイマル)の工芸学校を託された。後に統合され国立バウハウスが開校すると、グロピウスが初代校長になった。当初は総合芸術としての建築教育を目指すものであったが、カンディンスキーらのアヴァンギャルドな造形教育の場となった。ワイマール・バウハウス校長室のインテリア(1923年)は、モダンデザインによって統一された空間であり、記念碑的作品とされる。<br /><br /> <br />デッサウのバウハウスやがてワイマールのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転、デッサウ市立バウハウスとなった。デッサウの校舎(1926年)はグロピウスの設計によるもので、著書『国際建築』(1925年、バウハウス叢書第1巻)とともにモダニズム建築の代表作として世界中に知られるようになった。また、デッサウ市の依頼で、郊外に集合住宅(ジードルンク)を建設した(1926-1928年)。グロピウスは1928年に校長を退いた。1930年頃にはベルリンの集合住宅建設に当たった。<br /><br /> <br />グロピウス・ハウス(マサチューセッツ州リンカーン)バウハウス閉鎖後、1934年イギリスに亡命、1937年、ハーバード大学に招かれ、アメリカに赴いた。ここでI.M.ペイ、フィリップ・ジョンソンらを育てた。また、共同設計事務所TAC(The Architects Collaborative)を設立。超高層ビルのパンナムビル(1958年、現メットライフビル。ピエトロ・ベルスキらと共同設計)などを設計した。<br /><br />1969年7月5日、マサチューセッツ州ボストンにて86歳で死去。<br /><br /><br />評価<br />グロピウスが著書『国際建築』で主張した発想がもとになり、1930年代にアメリカで提唱されたインターナショナル・スタイル(国際様式)が生まれた。そのグロピウスの主張とは、造形は機能に従うものであり、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらすというものである。グロピウスの手になる1926年の「バウハウス校舎」は、まさにその実例となることを意図して設計された。<br /><br />なお、アメリカ移住後のグロピウスの実作品はそれほど多くないが、大学教育を通じてアメリカにおけるモダニズム建築の普及に多大な影響力を持った。超高層ビルにおけるインターナショナル・スタイルの普及は、ミースやSOMの手にゆだねられた。hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-8277266162543187622007-04-06T09:06:00.000+09:002007-04-08T17:40:10.762+09:00建築家ルイス・カーン都市とは、小さな子どもが歩いていくと、 <br />将来一生をかけてやろうとするものを教えてくれる <br />何かに出会う、そんなところだ。 <br /><br />空間の造形とは、光の造形だ。 <br /><br />創造とは、逆境の中でこそ見出されるもの。 <br /><br />人は哲学書を読んで、哲学者になるのではない。 <br />決してそうではない。 <br />人は生まれながらにして哲学者なのだと私は思う。 <br /><br />過去の建築家たちにより造られた建物に対して <br />敬意を込めて述べる。 <br />かつてあったものは常にあったものである。 <br />今あるものも、常にあったものであり、 <br />いつかあるであろうものも、常にあったものである。 <br />ビギニングスとはこの事だ。 <br /><br />自然でもつくれない物を、 <br />人間はつくることができるのだ。 <br /><br /> ルイス・カーン(アメリカ) <br /><br /><object width="425" height="350"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/qBl6DPsXGVk"></param><param name="wmode" value="transparent"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/qBl6DPsXGVk" type="application/x-shockwave-flash" wmode="transparent" width="425" height="350"></embed></object><br /><br /><a href="http://blogs.yahoo.co.jp/astak0501/24763566.html"target="_blank">ルイス・カーン</a><br /><br />ルイス・イザドア・カーン(Louis Isadore Kahn, 1901年2月20日 - 1974年3月17日)は、アメリカ合衆国の著名な建築家で、都市計画立案者、大学教授。彼の活動の主眼は、公共建築である。彼は野獣主義(Brutalismus)の代表者の1人でもある。<br /><br />生涯<br />1901年 ロシア帝国(当時)のエストニア地方のサーレマー島に、ユダヤ人の父レオポルド、同じく母ベルサの間の2男1女の長男として生まれる。 <br />1904年 父レオポルトが単身でアメリカに移住。 <br />1906年 家族とともに渡米後、フィラデルフィアに定住した。 <br />1924年 ペンシルバニア大学美術学部建築学科卒業。その後彼はヨーロッパに旅に出て、その際、彼はフランスのカルカッソンヌを訪れる。 <br />1925年-26年 ジョン・モリトールの事務所に勤務。フィラデルフィア万国博の主席デザイナーに就任。その後は、当時よく知られた建築家たちと共に仕事をし、再度ヨーロッパに出かける。 <br />1929年-30年 ポール・クレの事務所に勤務。 <br />1935年 自らの建築事務所を開き、居住建築プロジェクトを立ち上げる。 <br />1937年 フィラデルフィア住宅局顧問建築家 <br />1939年 アメリカ合衆国住宅局顧問建築家 <br />1947年-57年 イエール大学で教鞭をとる。イエール大学アートギャラリーを手がけ、フィラデルフィアの都市計画・交通スタディにも携わる。 <br />1957年-74年 フィラデルフィアのペンシルバニア大学に移る。ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟で注目を集め、事実上のデビューを果たす。 <br />1974年 インドのアーメダバードからの帰途、ニューヨークのペンシルバニア駅の男性用トイレで心臓発作のため亡くなり、数日後発見された。享年73。 <br /><br />業績<br /> <br />イェール大学アートギャラリー <br />ソーク研究所 <br />キンベル美術館 <br />バングラデシュ国会議事堂<br />ルイス・カーンは、しばしば最後の巨匠と呼ばれる。 それは、構造と意匠が高度な必然性の高みで融合し、その精神性を専門家だけでなく、広く一般にまで感受させることのできた建築を作り続けた最後の例だからである。<br /><br />カーンは最初、ローコストの公共住宅などを手がけ、イエール大学アートギャラリーで初めてチャンスを得る。 四角錐のグリッド・パターンによるスペース・フレーム(スラブ)で、ブルータルな表情を見せたが、外観は素材と工法においてきわめてオーソドックスなモダニズム様式である。 カーンは、建築素材の扱い方において慎重であり、素材はその本性に沿ってのみ扱われるべきだと信じていた。<br /><br />ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟で、いわゆる彼の言うところの「サーブド・スペース」(サポートされる機能空間)と「サーバント・スペース」(サポートする機能空間)が試され、階段室、排気、給気ダクトが納められた4本のシャフトが鋭く起立するデザイン的完成度で建築界の注目を集めるも、設備的完成度の未熟さもあって、使い心地は悪かった。 その経験も踏まえ、満を持して取り組んだのが、カリフォルニア州ラ・ホヤのソーク生物学研究所である。 これは、ポリオ・ワクチンの開発で有名な細菌学者のジョナス・ソーク博士がリチャーズ医学研究棟を見て感銘を受け、「芸術家のピカソを招いてもいいような研究所を」という彼の肝いりで始まったものである。 リチャーズでは縦に割れていた「サーブド・スペース」「サーバント・スペース」の関係性が、ここでは設備的には上下2層に分かれ、さらには共同作業を行う実験室と明確に分けられる形で、居住性に配慮した個人研究用の個室を、中庭に面して左右対称に、45度の角度で重なり合いながら横に張り出させている。 そしてその外観を、明るい砂色のコンクリートに良くマッチした窓枠のチーク材の生成りの色合いとのツートーンで際立たせつつ、印象的なファサードを形作ることに成功した。<br /><br />実は、この傑出した中庭は、そのデザイン処理に最後まで悩んだカーンが、建築家であり友人でもあったのもう一人のルイス、すなわちメキシコのバラガンのアドバイスを頼んだことによるものである。 伝えられるところによると、相談を受け現地に立ったバラガンは即座に「ここには何も置くべきではない。ただのプラザになるべきだ。そうすればここは空へのファサードになるだろう」と言い、カーンもまたすぐにそのデザイン意図を理解したという。 カリフォルニアの明るい太陽の下、中庭の真ん中に穿たれた浅く細い水路の先に、広大な太平洋を望むランドスケープは、カーン建築のなかの嚆矢である。<br /><br />以後、バングラデシュとインドで国家的プロジェクトに携わるも、カーンの作品の中での白眉といえば、テキサス州フォートワースに建つキンベル美術館であろう。 カマボコ形のコンクリート・ボールトの屋根を戴いた細長いユニットがおよそ3×6の配置で並べられた建物は、実業家で熱心な美術収集家であったケイ・キンベル夫妻の私的コレクションの為に計画された。 ボールト屋根の頂部にうがたれたトップライトからの自然光は、アルミ製のパンチングメタルの反射板で受けとめられ、銀色の間接光で満たされて光輝くコンクリート打ち放しの天井面を作り出す。 その柔らかな光は、地上ではここでしか見ることのできない性質のものである。<br /><br />いわゆるコンクリート打ち放しを、建築デザインとして用いたのはフランスのオーギュスト・ペレが最初であるが、それをモダニズムの美学として発展させる取り組みは、日本が世界で最も早く、アントニン・レーモンドを経て、後に日本のお家芸と言われるまでになる。 カーンのコンクリート打ち放しによる柱梁表現も、丹下健三の初期3部作(広島ピースセンター・旧東京都庁・香川県庁舎)に影響を受けたのではないかとする向きもあるが、その細部に至るまで緻密な表現は、エンジニアのオーギュスト・コマンダントの協力もあって、カーン独自の美学的完成度をみせている。<br /><br />しかしながら、モダニズムの禁欲的な原則にのっとって、構造と素材が厳しく幾何学的形体として操作され、そのディテールの精度とプロポーションの確かさにも関わらず、出来上がった時からもうすでにどこか廃墟の風情をたたえるカーンの建築は、しばしばアナクロニズム(時代錯誤)とも評される。 荘厳にして冷ややかな、神亡き機械時代の神殿を築いたかのようでもある。<br /><br />カーンはまた、哲学的な建築論でも知られ、その言葉はしばしば深淵で神学的な響きを帯びた。 その教えをペンシルバニア大学でじかに受けた建築家の中に香山壽夫がいる。<br /><br /><br />作品<br />イエール大学アートギャラリー (1951-1953) <br />ミル・クリーク団地(1952-1953、1959-1962) <br />ユダヤ・コミュニティーセンター (1954-1959) <br />トリビューン・レヴュー・ビル(1958-1961) <br />マーガレット・エシェリック邸 (1959-1961) <br />リチャーズ医学生物学研究場 (1959-1965) <br />ソーク研究所 (1959-1965) <br />ノーマン・フィッシャー邸 (1960-1967) <br />ブリンモア大学エルドマン・ホール (1960-1965) <br />ファースト・ユニタリアン教会(1959-1967) <br />バングラディッシュ首都大学、議事堂 (1962-1974) <br />インド経営大学 (1962-1974) <br />フィリップ・エクスター・アカデミー図書館 (1965-1972) <br />オリヴェッティ=アンダーウッド工場(1966-1970) <br />キンベル美術館 (1966-1972) <br />イエール大学英国美術研究センター (1969-1974) <br />スティーヴン・コーマン邸 (1971-1973) <br /><br />栄誉<br />1965年 デンマーク建築家協会からメダル。 <br />1971年 アメリカ建築研究所(AIA)から金メダル。 <br />1972年 イギリスの王立建築研究所(RIBA)から金メダル。hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-86201542971874463822007-04-05T12:39:00.001+09:002007-04-08T17:40:23.118+09:00建築家ル・コルビュジエ<a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhRwoi06NwI/AAAAAAAAAHo/hpJ0nPISO0E/s1600-h/280px-Ronchamp.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhRwoi06NwI/AAAAAAAAAHo/hpJ0nPISO0E/s320/280px-Ronchamp.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5049784924034971394" /></a><br />住宅は住むための機械である。 <br /><br />ニューヨークの摩天楼は小さすぎる。 <br /><br />機能はデザインに一致する。 <br /><br />新しい精神がある。それは <br />明晰な概念に導かれた建築と統合の精神である。 <br /><br />新しい精神が培われるのは <br />実用性を追求する工業生産においてだ。 <br /><br />近代建築上における重要な課題は <br />幾何学によって解決される。 <br /><br />経済性を理解し計算力を備えたエンジニアは <br />私達の時代と世の中を調和に導いてくれる。 <br /><br />建築は光のもとで繰り広げられる <br />巧みで正確で壮麗なヴォリュームの戯れである。 <br /><br />美しさは装飾ではなく自然の秩序にこそ宿る。 <br /><br />芸術は心を込めて美を追求することだが <br />装飾は表面的な外観を手軽につくろうものだ。 <br /><br />人を思いやり喜びを与えるように考えて <br />建物をつくるのが建築家の使命だ。 <br /><br />人が機械に操られることなく使いこなすには <br />自然に還るべし。 <br /><br />住宅は生活の宝石箱。幸せをつくる機械だ。 <br /><br /> ル・コルビュジエ(スイス-フランス) <br /><br /><br /><br /><a href="http://wdbear.exblog.jp/i15"target="_blank">ル・コルビュジエ</a><br /><br /><a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhRwji06NvI/AAAAAAAAAHg/Rnz6kouhw6g/s1600-h/170px-Le_corbusier_bueste.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhRwji06NvI/AAAAAAAAAHg/Rnz6kouhw6g/s320/170px-Le_corbusier_bueste.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5049784838135625458" /></a><br /><br />ル・コルビュジエ(Le Corbusier、1887年10月6日 - 1965年8月27日)はスイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(Charles-Edouard Jeanneret)。フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある。)。<br /><br /><br />経歴<br />スイスのラ・ショー・ド・フォンに時計職人の父エデゥアールとピアノ教師の母マリーの次男として生まれた。本来は時計職人を養成する地元の装飾美術学校で学んだ彼は、大学における正規の建築家教育を受けていない。1908年にパリへ行き、鉄筋コンクリート造の先駆者であるオーギュスト・ペレの事務所に、1910年にはドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所に籍を置き、建築を学んだ。1911年から半年をかけてベルリンから東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを巡る東方への旅へ出た。ラ・ショー・ド・フォンの美術学校で教鞭を執った後、1914年に鉄筋コンクリートによる住宅建設方法であるドミノシステムを発表。1917年にパリへ戻り、1920年にダダの詩人のポール・デルメ、ピュリスムの画家のアメデ・オザンファンと共に雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」(L'esprit Nouveau)を創刊、この頃からル・コルビュジエというペンネームを用いた。<br /><br />1922年に従兄弟のピエール・ジャンヌレとともに事務所を構えた。1925年のパリ万国博覧会(いわゆるアールデコ博)では装飾のないモダニズム建築のエスプリ・ヌーヴォー館を担当、アール・デコ様式の展示館が並ぶ中で異彩を放った。また同年、パリ市街を超高層ビルで建て替えようという都市改造案を発表した。低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的であるとするもので、もちろんパリでは採用されなかったが、これ以降の各国の都市計画に大きな影響を与えた(「輝く都市」)。 1927年、ドイツ工作連盟主催の住宅展に参加。<br /><br /> <br />サヴォア邸1928年以降に開催されたCIAM(Congrès International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)[1]では、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエらとともに参加し、中心メンバーとして活躍した。CIAMは国際的な近代建築運動の拠点になった。1931年竣工のサヴォア邸はル・コルビュジエの主張する近代建築の5原則を典型的に示し、代表作として知られる。またル・コルビュジエの、「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」という言葉はよく引用される。<br /><br />第二次世界大戦後、ドミノシステムに基づく集合住宅マルセイユのユニテ・ダビタシオン(L'unité d'habitation de Marseille)を建設(1947年-1952年)。ユニテは住居単位を意味し、かつて主張した「輝く都市」の実践であった。また1951年からはインドのチャンディーガルの建築顧問として都市計画に関わった。<br /><br /> <br />ロンシャン教会後期の代表作ロンシャンの教会堂(1955年竣工)はカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、鉄筋コンクリートで可能になった自由な造形を示している。ここでは従来主張していた機能性・合理性とは異なった表現に達した。<br /><br />1965年南フランスのカプ・マルタンで水泳中に死去。<br /><br /><br />評価<br />画家から出発し、建築家として活動をはじめた後も画家としての制作活動を続けていた。<br /><br />歴史上の功績は、鉄筋コンクリートを利用し、装飾のない平滑な壁面処理、伝統から切り離された合理性をモットーとしたモダニズム建築の提唱者ということになる。彼の思想は世界中に浸透したが、特に1920年代の近代主義建築の成立において、造形上に果たした功績が大きい。彼の造形手法は一つの規範となり、世界に広がって1960年代に一つのピークを極めた。(その反動から1980年代には装飾過多、伝統回帰的なポストモダン建築も主張されている)<br /><br />西洋では石積みなどが伝統的だったが、コルビュジエはスラブ、柱、階段のみが建築の主要要素だとするドミノシステムを考案した。その後の代表作サヴォア邸は、コルビュジエの主張する「新しい建築の5つの要点(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)」(近代建築の五原則)を体現している。クック邸が5つの要点を体現した最初の作品であり、サヴォア邸でより完成度の高い実例を示した。<br /><br />都市計画の分野でもパリ改造計画案を発表したほか、CIAM 第4回会議でル・コルビュジエらが提案したアテネ憲章(1933年)は、公開空地など、以後の都市計画理論に多大な影響を与えた。後にはチャンディーガルなどで実践している。 終始モダニズムの論客として、新しいビジョンを示す論陣を張ってきた彼は、実作においては自由な芸術家としての立場を貫き、必ずしも常に論理性を重視しているとはいえない。しかし、作品の独創性や新規性により、そうした矛盾を問題視させない能力があったといえる。その点は大いに誤解されたままであるが、ある意味で本人が意図した通りなのである。晩年のロンシャン教会(ノートルダム・デュ・オー礼拝堂)は造形を特に強調し、それまで主張していたモダニズム建築からかけ離れた作品として注目される。<br /><br />単純な構成で快適さを求めたコルビュジエの家具は、GRAND CONFORT(大いなる快適)と呼ばれLC3、LC4(椅子)は有名である。<br /><br />1997年4月から発行されている10スイス・フラン札には彼の肖像と作品が描かれている。<br /><br /><br />建築作品<br />1923年 ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸 <br />1925年 小さな家 <br />1926年 クック邸 <br />1929年 サヴォア邸 <br />1952年 マルセイユのユニテ・ダビタシオン <br />1955年 ロンシャン教会 <br />1959年 東京国立西洋美術館(基本設計)  <br />フランスからの松方コレクション返還に際して建設された。コルビュジエは設計のため一度来日し、基本設計をまとめた。実施設計は弟子の前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が担当した。 <br />1960年 ラ・トゥーレット修道院 <br /><br />[編集] 著作等<br />建築へ(建築をめざして)1923 <br />今日の装飾芸術 1925 <br />住宅と宮殿 1928 <br />輝く都市(邦訳:鹿島出版会SD選書)1935 <br />新しき芸術 <br />伽藍が白かつたとき(邦訳:岩波書店)1937 <br />モデュロール1 1948 <br />モデュロール2 1955hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-7325286530975546922007-04-02T08:13:00.000+09:002007-04-08T17:40:35.324+09:00建築家ミース・ファン・デル・ローエ<a href="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhA-9xyHkaI/AAAAAAAAAHQ/WWYMq7H9rCc/s1600-h/210px-Seagrambuilding.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhA-9xyHkaI/AAAAAAAAAHQ/WWYMq7H9rCc/s320/210px-Seagrambuilding.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5048604413338816930" /></a><br />少なきことは、より豊か。 <br /><br />神は細部に宿る。 <br /><br />建築は空間に翻訳された時代の意志である。 <br /><br /> ミース・ファン・デル・ローエ(ドイツ-アメリカ)<br /><br /><a href="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhA-4xyHkZI/AAAAAAAAAHI/s2z9G1_TBvQ/s1600-h/210px-Barcelona.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhA-4xyHkZI/AAAAAAAAAHI/s2z9G1_TBvQ/s320/210px-Barcelona.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5048604327439470994" /></a><br /><br /><br />ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe、1886年3月27日、アーヘン - 1969年8月17日、シカゴ)は20世紀のモダニズム建築を代表するドイツの建築家。ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある。)。"Less is more."(より少ないことは、より豊かなこと)という標語で知られ、近代主義建築のコンセプトの成立に貢献した建築家である。自由な間取りのユニヴァーサル・スペースという概念を提示した。<br /><br /><br />略歴と主要作品<br /> <br />ファンズワース邸ミースは、ドイツのアーヘンに、石工の息子として生まれた。大学で正式な建築教育を受けることなく、1908年から1912年まで建築家ペーター・ベーレンスの事務所にドラフトマンとして在籍し建築を学んだ。1927年、ドイツ工作連盟主催のシュトゥットガルト住宅展に参加し、ベーレンス、グロピウス、ル・コルビュジエ、ブルーノ・タウトらとともに、実験的な集合住宅を建設した。<br /><br /> <br />バルセロナ・チェア1929年のバルセロナ万国博覧会で建設されたドイツ館、バルセロナ・パヴィリオンは、鉄とガラスで構成され、大理石の壁を配したもの。モダニズムの空間を実現したものとして建築史上有名。また、同館のためにミースがデザインしたバルセロナ・チェアは、モダンデザインの傑作として知られる。パヴィリオンは博覧会終了後に取り壊されたが、1986年に同じ場所に復元され、ミース・ファン・デル・ローエ記念館となっている。<br /><br />ヴァルター・グロピウスの推薦で1930年からバウハウスの第3代校長を勤めた。ナチスによってバウハウスが閉鎖(1933年)されたため、アメリカに亡命した。シカゴのアーマー大学(後のイリノイ工科大学(IIT))に招かれ、クラウン・ホールをはじめとする同大学のキャンパス計画も手がけた。<br /><br />四方をガラスの壁で囲んだファンズワース邸(1950年・アメリカ)も代表作の一つ。イリノイに週末別荘として建てられたもので、建設費が当初予算を大幅に超えたため、訴訟沙汰になったがミースが勝訴した。2003年にオークションに出され、ナショナルトラストが取得。ユネスコ世界遺産に登録された。<br /><br /> <br />シーグラムビル超高層ビルの実作品として、ニューヨークのシーグラムビル(1958年竣工)があるが、モダニズムの超高層ビルの中では、SOMのレバー・ハウス(1952年竣工)と並んで、最もすぐれたデザインの超高層ビルともいわれている。<br /><br /> <a href="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhA-yhyHkYI/AAAAAAAAAHA/iBrC-udjqwc/s1600-h/300px-Mies_van_der_Rohe_photo_Farnsworth_House_Plano_USA_9.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RhA-yhyHkYI/AAAAAAAAAHA/iBrC-udjqwc/s320/300px-Mies_van_der_Rohe_photo_Farnsworth_House_Plano_USA_9.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5048604220065288578" /></a><br /><br /><br /><a href="http://blog.livedoor.jp/modernarchitecture/archives/cat_50018133.html"target="_blank">ミース・ファン・デル・ローエ</a>hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-58719565939653576372007-03-31T14:26:00.001+09:002007-04-28T09:08:27.309+09:00建築家フランク・ロイド・ライト<a href="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3yphyHkSI/AAAAAAAAAGQ/KQWaPuBrzns/s1600-h/200px-Frank_lloyd_wright.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3yphyHkSI/AAAAAAAAAGQ/KQWaPuBrzns/s320/200px-Frank_lloyd_wright.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5047957552609333538" /></a><br /><a href="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3yNRyHkRI/AAAAAAAAAGI/tNjF2J512vQ/s1600-h/250px-FLWright_Home_and_Studio_East_elev_HABS_ILL%252C16-OAKPA%252C5-3.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3yNRyHkRI/AAAAAAAAAGI/tNjF2J512vQ/s320/250px-FLWright_Home_and_Studio_East_elev_HABS_ILL%252C16-OAKPA%252C5-3.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5047957067278029074" /></a><br /><br />あなたが本当にそうだと信じることは、 <br />常に起こります。 <br />そして、信念がそれを起こさせるのです。 <br /><br />医者は自分のミスを闇に葬ることができるが、 <br />建築家は依頼者に、 <br />ツタ科の植物を植えるように勧めることしかできない。 <br /><br />敷地に特徴となる自然があるのであれば、 <br />住宅が敷地から成長しているかのようにし、 <br />環境と呼応するように形づくりなさい。 <br />そのような自然がない場合は、 <br />自然が機会を与えられた場合に <br />どうなるであろうかを想定して、 <br />できるだけ静かに、本質的で、有機的にしなさい。 <br /><br />暖炉は家の心臓である。 <br /><br />テレビは目のチューインガムである。 <br /><br /> <a href="http://blog.livedoor.jp/modernarchitecture/archives/cat_50003094.html"target="_blank">フランク・ロイド・ライト</a>(アメリカ)<br /><br /><a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3yCByHkPI/AAAAAAAAAF4/2qFi_P5N0UE/s1600-h/250px-ImperialHotelFacade.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3yCByHkPI/AAAAAAAAAF4/2qFi_P5N0UE/s320/250px-ImperialHotelFacade.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5047956874004500722" /></a><br /><br /><br /><br /><br />フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright、1867年6月8日 - 1959年4月9日)は、アメリカの建築家。アメリカ大陸と日本に多くの作品を残している。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある。)。<br /><br /><br />生涯<br />ウィスコンシン州生まれ。ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学し、シカゴへ向かった。叔父ジェンキンの紹介により、建築家のライマン・シルスビーの事務所で働き始めたが、1年ほどでシルスビーの事務所を辞し、ダンクマール・アドラーとルイス・サリヴァンが共同して設立したアドラー=サリヴァン事務所へと移った。アドラー=サリヴァン事務所ではその才能を見込まれ、事務所における1888年以降のほとんどの住宅の設計を任せられた。ライト自身もサリヴァンをLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬し、生涯にわたりその影響を肯定し続けた。<br /><br /> <br />ロビー邸アドラー=サリヴァン事務所に勤めてもうすぐ7年になろうとした1893年、サリヴァンに事務所での設計業務とは別にアルバイトの住宅設計を行っていたことを知られ、それを咎められたライトはアドラー=サリヴァン事務所を辞し、独立して事務所を構えた。1894年のウィンズロー邸は独立後最初の作品である。独立した1893年から1910年までの17年間に計画案も含め200件近い建築の設計を行い、プレイリースタイル(草原様式 Prairie Style)の作品で知られるようになった。1906年のロビー邸はその代表的作品である。プレイリースタイルの特徴としては、当時シカゴ周辺の住宅にあった屋根裏、地下室などを廃することで建物の高さを抑えたこと、水平線を強調した佇まい、部屋同士を完全に区切ることなく、一つの空間として緩やかにつないだことなどがあげられる。<br /><br />ヨーロッパの建築様式の模倣である新古典主義が全盛であった当時のアメリカにおいて、プレイリースタイルの作品でもってアメリカの郊外住宅に新しい建築様式を打ち出し、建築家としての評価を受けたライトであったが、この後1935年のカウフマン邸(落水荘)までの間、長い低迷期を迎えることとなる。そのきっかけになった出来事が1904年に竣工したチェニー邸の施主の妻ママー・ボースウィック・チェニーとの不倫関係であった。当時、ライトは1889年に結婚したキャサリン・リー・トビンとの間に6人の子供を設けていた。既にチェニー夫人と恋仲にあったライトは妻キャサリンに離婚を切り出したが、彼女は応じなかった。1909年、42歳であったライトはついに事務所を閉じ、家庭をも捨て、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちを強行する。1911年にアメリカに帰国するまでの2年間に設計活動が行われることはなかったが、その間に滞在したベルリンにおいて、後にライトの建築を広く知らしめ、ヨーロッパの近代建築に大きな影響を与えるきっかけとなったヴァスムート社出版のライト作品集の編集及び監修に関わった。<br /><br /> <br />帝国ホテル旧本館1911年に帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声とほとんど来ない設計依頼という危機的状況であった。依然妻は離婚には応じていなかったが、ライトはチェニー夫人との新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にタリアセンの設計を始めた。その後、少しずつではあるが設計の依頼が増えてきたライトを更なる事件が襲った。タリアセンの使用人が突如発狂し建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達を惨殺したのである。現場に出ていたライトは難を逃れたが大きな痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となった。そのような中で依頼が来たのが日本の帝国ホテルの仕事であった。<br /><br />そのスタイルには変遷もあり、一時はマヤの装飾を取り入れたことがあるが、基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴である。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。<br /><br />孫娘に、アカデミー賞女優のアン・バクスターがいる。<br /><br /><br />代表作<br /> <br />オークパークにある自邸と事務所 <br />カウフマン邸/落水荘 <br />グッゲンハイム美術館ライト自邸と事務所 (アメリカ合衆国イリノイ州オークパーク、1889) <br />ウィンズロー邸(1894) <br />ラーキン・ビル(1903) <br />ユニティ教会(1904) <br />ロビー邸(1906) <br />ミッドウェー・ガーデン(1913) <br />タリアセンⅡ(1914) <br />タリアセンⅢ(1925) <br />カウフマン邸/落水荘(1935-39) <br />ジョンソンワックス社(1936-39) <br />ジョンソン邸(1937) <br />タリアセン・ウエスト(1937) <br />ジョンソンワックス研究棟(1944) <br />グッゲンハイム美術館(1943-59) <br />ベス・ショーロム・シナゴーグ(ペンシルベニア州エルキンズ・パーク、1954) <br />マリン郡役所(1957-66) <br />リトル・ハウスの居間がメトロポリタン美術館に再現。また帝国ホテル玄関のオブジェの一つも展示。 <br />日本国内に現存する作品<br /><br />帝国ホテル  (1967年に取り壊され、正面玄関部分のみが愛知県犬山市の博物館明治村に移築、1923年) <br />山邑邸 (現 ヨドコウ迎賓館、兵庫県芦屋市、国の重要文化財、1924年) <br />自由学園明日館 (共同設計:遠藤新、東京都豊島区、国の重要文化財、1926年) <br />旧林愛作邸 (現 電通八星苑、東京都世田谷区、非公開、1917年)<br /><br /><a href="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3yHhyHkQI/AAAAAAAAAGA/Ss88ujgDdE8/s1600-h/250px-Guggenheim_museum_exterior.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3yHhyHkQI/AAAAAAAAAGA/Ss88ujgDdE8/s320/250px-Guggenheim_museum_exterior.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5047956968493781250" /></a>hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-70004901362326548142007-03-30T19:44:00.001+09:002007-04-08T17:41:01.065+09:00建築家黒川紀章<a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg30IByHkXI/AAAAAAAAAG4/z4tgzx7HSbU/s1600-h/180px-The_National_Art_Center.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg30IByHkXI/AAAAAAAAAG4/z4tgzx7HSbU/s320/180px-The_National_Art_Center.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5047959176106971506" /></a><br /><a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3z_ByHkWI/AAAAAAAAAGw/pQcCUugLmJI/s1600-h/180px-Nakagin_Capsule_Tower_02.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3z_ByHkWI/AAAAAAAAAGw/pQcCUugLmJI/s320/180px-Nakagin_Capsule_Tower_02.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5047959021488148834" /></a><br />日本文化は完璧な共生文化なのです。 <br />50年後の未来社会で、 <br />この共生という文化の概念が世界の標準 <br />となっていても不思議はありません。 <br /><br />異文化に惹かれるのは世界共通の <br />メンタリティだと思いますが、 <br />日本人がユニークなのは、憧れの外国文化を <br />積極的に自分達の文化に取り入れてしまうところです。 <br />仮にアメリカの建築家が日本の現代建築に惹かれた <br />としても、日本文化をアメリカに取り入れようとは <br />しないと思います。 <br />それに比べると、日本はどうでしょう。 <br /><br /> 黒川紀章hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-58662259744134000572007-03-29T16:20:00.001+09:002007-04-08T17:41:14.161+09:00建築家安藤忠雄<a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rgtp5hyHkHI/AAAAAAAAAE8/wnYuhowlROs/s1600-h/140px-Westin_Awaji_Island_Hotel_06.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rgtp5hyHkHI/AAAAAAAAAE8/wnYuhowlROs/s320/140px-Westin_Awaji_Island_Hotel_06.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5047244244440813682" /></a><br /><a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rgtp0hyHkGI/AAAAAAAAAE0/4e5CWNwfkqE/s1600-h/130px-ShibaRyotaroMemorialMuseum_GlassCorridor.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rgtp0hyHkGI/AAAAAAAAAE0/4e5CWNwfkqE/s320/130px-ShibaRyotaroMemorialMuseum_GlassCorridor.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5047244158541467746" /></a><br /><a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RgtpvhyHkFI/AAAAAAAAAEs/ldePxhu7Apo/s1600-h/140px-Chikatsu_asuka_museum01s3592.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RgtpvhyHkFI/AAAAAAAAAEs/ldePxhu7Apo/s320/140px-Chikatsu_asuka_museum01s3592.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5047244072642121810" /></a><br />自分の責任において、決定を下し、行動すること。 <br /><br />何かを創りたいと思っても、 <br />データと論理だけでは無理で、 <br />知恵が必要です。 <br /><br />自然に触れることによって <br />『思い通りに扱えない』ことを学ぶ。 <br /><br />たとえ負けても、次があるならば、 <br />そこに可能性を求めたい。 <br />許される限り、前へ進んでいきたい。 <br /><br />極限状態での可能性の追求が、 <br />本当の意味での創造につながると <br />私は考えています。 <br /><br />多数に追随すれば必ず自分を見失う。 <br />孤独を恐れず、したいことを続けるしかない。 <br /><br />1960年代は日本にとっての青春だった。 <br /><br />仕事のストレスは、仕事で解消します。 <br /><br />事務所開設後、最初に手がけたのは、 <br />頼まれもせず、街の空き地に自分で勝手に考えた <br />プロジェクトでしたね。 <br /><br />コンクリートが、単純に私の好みに <br />一番合っているのと、現代建築を象徴する <br />最も”ありふれた”材料だからです。 <br /><br /> 安藤忠雄<br /><br /><br /><br />安藤 忠雄(あんどう ただお、1941年9月13日 - )は日本人の建築家。東京大学特別栄誉教授。21世紀臨調特別顧問。打ち放しコンクリートの住宅や商業建築を次々と発表し、一世を風靡した。名声が上がるに従い、博物館・娯楽施設・宗教施設・事務所等、作品の幅は広がり、規模も大きくなるが、逆に初期の小規模建築の持っていた魅力が失われているという見方も有る。 特に関西方面での作品が目立つ。<br /><br />元プロボクサー(リングネームはグレート安藤。戦歴、23戦13勝3敗7分け)。<br /><br />略歴<br />大阪府大阪市港区生まれ。ボクシングの試合で得たファイトマネーなどを手にアメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアを旅行しながら、独学で建築を学ぶ。その頃に、彼が撮影した写真はルイス・カーンの作品集などで使われている。<br /><br />双生児の兄として生まれる。母の実家、安藤家との約束で、旭区の祖父母に育てられる。双子の弟は北山孝雄。東京で都市コンサルタント業/商品デザイン業-北山創造研究所を経営。3人兄弟で一番下の弟は建築家の北山孝二郎(ピーター・アイゼンマンとのコラボレーションで名を馳せた)。初期の作品(ローズガーデン/1977/神戸市生田区、等)のいくつかは弟、孝雄の所属していた(株)浜野商品研究所(1992年、(株)浜野総合研究所と改名<代表=浜野安宏(セツ・モードセミナー出身)>)と共に実現した。<br /><br />一般的に独学と知られているが、高校卒業後は長沢節が創った美術学校であるセツ・モードセミナーに参加し、大阪芸術大学への入学歴(後に中退)や、建築事務所での短期勤務歴(最終的に影響を受けた建築家の1人として、都市計画家として主な活動をした水谷穎介氏が挙げられる。)はある。 その後、独学を母体に通信教育等を利用しインテリア/SD等を学ぶ。建築以前の初期作品には関西を中心とした喫茶店等のインテリアデザインが有る。<br /><br />1969年に安藤忠雄建築研究所を大阪に設立。個人住宅を多く手がけた。「住吉の長屋」(大阪)が高く評価され、大規模な公共建築ではなくごく小さな個人住宅としてはじめて日本建築学会賞を獲得した。以降、コンクリート打ち放しと幾何学的なフォルムによる独自の表現を確立し、世界的な評価を得る。1980年代は関西周辺(特に神戸・北野町、大阪・心斎橋)での商業施設設計や寺院・教会設計が相次ぐが、1990年代以降は公共建築、美術館建築、また全国や海外の仕事も増えている。また、阪神タイガースファンである。今は亡き愛犬は迷子になり、さ迷う所を安藤氏が保護したのだが、元飼い主が現れないので事務所で飼う事になった。名前はコルビュジエに肖りコルと名づけられた。<br /><br />1987年、イェール大学客員教授に就任する。 <br />1988年、コロンビア大学客員教授に就任する。 <br />1989年、ハーバード大学客員教授に就任する。 <br />1997年、東京大学工学部教授に就任する。 <br />2002年、南カリフォルニア大学客員教授に就任する。 <br />2003年、東京大学を定年退官して、名誉教授となる。 <br />2005年、東京大学から特別栄誉教授の終身称号を授与される。 <br /><br />受賞歴<br /> <br />近つ飛鳥博物館1979年 - 日本建築学会賞(住吉の長屋) <br />1983年 - 日本文化デザイン賞(六甲の集合住宅ほか) <br />1985年 - 第5回アルヴァ・アアルト賞 <br />1986年 - 芸術選奨文部大臣賞新人賞(中山邸ほか) <br />1985年 - 毎日デザイン賞 <br />1987年 - 毎日芸術賞(「六甲の教会」) <br />1988年 - 第13回吉田五十八賞(城戸崎邸) <br />1989年 - フランス建築アカデミー大賞 <br />1990年 - 大阪芸術賞 <br />1991年 - アメリカ建築家協会(AIA)名誉会員、アーノルド・ブルンナー記念賞(アメリカ) <br />1992年 - 第1回カールスベルク建築賞(デンマーク) <br />1993年 - イギリス王立英国建築家協会(RIBA)名誉会員。日本芸術院賞 <br />1994年 - 第26回日本芸術大賞(「大阪府立近つ飛鳥博物館」) <br />1995年 - 1995年度プリツカー賞、1994年度朝日賞、第7回国際デザインアワード、フランス文学芸術勲章(シュヴァリエ) <br />1996年 - 第8回高松宮殿下記念世界文化賞、第1回国際教会建築賞 <br />1997年 - ドイツ建築家協会名誉会員、王立英国建築家協会ロイヤルゴールドメダル(RIBAゴールドメダル)、第4回大阪キワニス賞、フランス文学芸術勲章(オフィシエ) <br />2002年 - アメリカ建築家協会ゴールドメダル(AIAゴールドメダル)、京都賞思想・芸術部門受賞 <br />2005年 - 国際建築家連合ゴールドメダル(UIAゴールドメダル) <br /><br />主な作品<br /> <br />サントリーミュージアム<br /> <br />淡路夢舞台 百段苑<br /> <br />淡路夢舞台<br /> <br />兵庫県立美術館<br /> <br />四国村ギャラリー<br /> <br />司馬遼太郎記念館<br /> <br />兵庫県立こどもの館・工作館 <br />1969年 旧国鉄大阪駅周辺再開発計画 - (大阪市北区) <br />1973年 富島邸 - (大阪府) 現在安藤忠雄建築事務所 <br />1976年 住吉の長屋 - (大阪府) 中庭に屋根が無いので、風雨が入る <br />1981年 小篠邸 - (兵庫県芦屋市) <br />1983年 六甲の集合住宅 I - 兵庫県神戸市灘区 <br /> 〃   タイムズ I - (京都府) <br />1984年 フェスティバル - (沖縄県) <br />1986年 六甲の教会 - (神戸市灘区) <br /> 〃   城戸崎邸 - (東京都) <br />1987年 ゲストハウスOLD/NEW六甲 - (兵庫県) <br />1988年 水の教会 - (北海道) <br />1989年 光の教会 - (大阪府茨木市) <br /> 〃   旧ライカ(アパレル会社)本社ビル - (大阪市住之江区) <br /> 〃   兵庫県立こどもの館 - (兵庫県姫路市) <br />1991年 姫路文学館 - (兵庫県) <br /> 〃   タイム II - (京都府) <br /> 〃   本福寺水御堂 - (兵庫県) <br />1992年 セビリア万国博覧会 日本政府館 - (スペイン・セビリア) <br /> 〃   熊本県立装飾古墳館 - (熊本県) <br /> 〃   星の子館 - (兵庫県) <br /> 〃   直島コンテンポラリーアートミュージアム - (香川県直島町) <br />1993年 ヴィトラセミナーハウス - (ドイツ) <br /> 〃   六甲の集合住宅 II - (兵庫県神戸市) <br /> 〃   兵庫県立看護大学 - (兵庫県明石市) <br /> 〃   かほく市立金津小学校 - (石川県かほく市) <br />1994年 大阪府立近つ飛鳥博物館 - (大阪府) <br /> 〃   サントリーミュージアム 天保山 - (大阪市港区) <br /> 〃   兵庫県立木の殿堂 - (兵庫県) <br /> 〃   京都府立陶板名画の庭 - (京都府) <br /> 〃   成羽町美術館 - (岡山県) <br />1995年 ユネスコ 本部 瞑想の空間 - (フランス・パリ) <br /> 〃   直島コンテンポラリーアートミュージアム アネックス - (香川県直島町) <br /> 〃   小海高原美術館 - (長野県南佐久郡) <br /> 〃   長良川国際会議場 - (岐阜県岐阜市) <br />1996年 大山崎山荘美術館 - (京都府大山崎町) <br /> 〃   姫路市立文学資料館南館 - (兵庫県姫路市) <br />1997年 FABRICA (ベネトンアートスクール) - (イタリア・トレヴィーゾ) <br /> 〃   TOTOセミナーハウス(兵庫県淡路市) <br /> 〃   アイキャナー/リー邸(アメリカ) <br />1999年 西宮市貝類館(兵庫県西宮市) <br /> 〃   新潟市立豊栄図書館(新潟県新潟市(旧豊栄市立図書館)) <br />2000年 淡路夢舞台(兵庫県淡路市) <br /> 〃   奇跡の星の植物館( 〃 ) <br /> 〃   ピューリッツァー美術館(アメリカ) <br />2001年 兵庫県立美術館 芸術の館(神戸市中央区) <br /> 〃   アルマーニ・テアトロ(イタリア) <br /> 〃   司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市) <br /> 〃   大阪府立狭山池博物館(大阪府大阪狭山市) <br /> 〃   ユニバーサルシティ駅(JRゆめ咲き線)(大阪市此花区) <br />2002年 フォートワース現代美術館(アメリカ・テキサス州フォートワース) <br /> 〃   国際子ども図書館(東京都台東区) <br /> 〃   石川県西田幾多郎記念哲学館(石川県かほく市) <br /> 〃   四国村ギャラリー(香川県高松市) <br />2003年 尾道市立美術館(広島県尾道市) <br /> 〃   加賀市立錦城中学校(石川県加賀市) <br />2004年 東京アートミュージアム、シティハウス仙川(東京都調布市) <br /> 〃   地中美術館(香川県直島町) <br />〃   新潟市立葛塚中学校(新潟県新潟市(旧豊栄市)) <br />2006年 表参道ヒルズ(同潤会青山アパート建替え)(東京都渋谷区) <br /> 〃   (新)銀橋(大阪市北区)(デザイン選考委員会の委員長として参加) <br /> 〃   新東京タワー(東京都墨田区) <br />2007年1月16日 JR熊本駅の新しい駅舎デザイン正式契約 [東京ミッドタウン21_21サイト] <br /><br />著書<br />「連戦連敗」安藤忠雄(2001/09/03) 東京大学出版会 <br />「安藤忠雄の美術館・博物館」(2001/02) 美術出版社 <br />「光の教会―安藤忠雄の現場」平松剛(著)(2000/12) 建築資料研究社 <br />「安藤忠雄」フィリップ・ジョディディオ"(著) Philip Jodidio(原著)(2001/06) タッシェンジャパン <br />「旅―インド・トルコ・沖縄」安藤忠雄(著)(2001/03) 星雲社 <br />「大工道具から世界が見える―建築・民俗・歴史そして文化」西和夫(著)(2001/04) 五月書房 <br />「淡路夢舞台―千年庭園の記録」安藤忠雄(著)(2000/05) 新建築社 <br />「建築を語る」安藤忠雄(著)(1999/06) 東京大学出版会 <br />「建築家たちの20代」東京大学工学部建築学科安藤忠雄研究室(1999/04) TOTO出版 <br />「アンドウ―安藤忠雄・建築家の発想と仕事」松葉一清(著)(1996/09) 講談社 <br />「家」安藤忠雄(著)(1996/07) 住まいの図書館出版局 <br />「現代デザインを学ぶ人のために」嶋田厚(著)(1996/06) 世界思想社 <br />「建築家という生き方―27人が語る仕事とこだわり」安藤忠雄(著)日経アーキテクチュア(2001/08) 日経BP社 <br />「直島コンテンポラリーアートミュージアム」安藤忠雄・三宅理一(著)(1996/09) 鹿島出版会 <br />「安藤忠雄の夢構想―震災復興と大阪湾ベイエリアプロジェクト」安藤忠雄(著)(1995/10) 朝日新聞社 <br />「サントリーミュージアム天保山」安藤忠雄・三宅理一(著)(1995/10) 鹿島出版会 <br />「壁の探究―安藤忠雄論」古山正雄(著)(1994/11) 鹿島出版会 <br />「安藤忠雄ディテール集」安藤忠雄(著)二川幸夫(著)(1994/07) A.D.A.Edita Tokyo <br />「安藤忠雄3」安藤忠雄(著)SD編集部(1993/11) 鹿島出版会 <br />「安藤忠雄の都市彷徨」**安藤忠雄(著)(1992/05) マガジンハウス <br />「安藤忠雄(1981‐1989)」SD編集部(編集)(1990/12) 鹿島出版会 <br />「安藤忠雄―挑発する箱」日本の建築家編集部(著)(1986/01) 丸善 <br />「交感スルデザイン」安藤忠雄(著)(1985/09) 六耀社 <br />「安藤忠雄のディテール―原図集 六甲の集合住宅・住吉の長屋」安藤忠雄(著)(1984/01) 彰国社 <br />「安藤忠雄」安藤忠雄(著) SD編集部(1982/03) 鹿島出版会 <br />「360映像で見る現代建築 安藤忠雄」日経BP出版センターhoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-26529294532864103152007-03-28T08:30:00.001+09:002007-04-08T17:41:27.851+09:00建築家アントニン・レーモンド建築はsimple、natural、economical、direct、 <br />そしてhonestでなければならない。 <br /><br /> アントニン・レーモンド(オーストリア)<br /><br />プラハ工科大学で学んだ。第1次世界大戦に従軍した後アメリカに渡り、ライトの事務所に入所。1919年帝国ホテル設計施工の助手として来日。1922年独立し、レーモンド事務所を開設する。ライトの影響が余りに強烈であったため、そこから抜け出すのに苦労したという。聖路加国際病院などの設計をフォイエルシュタイン(Bedřich Feuerstein オーギュスト・ペレの弟子)と共同で行ったほか、ル・ランシーの教会堂(ペレの代表作)をコピーした東京女子大学礼拝堂を建設した。ペレを介してライトの影響から逃れ、モダニズム建築の最先端の作品を生み出すようになった。<br /><br />前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなどの建築家がレーモンド事務所で学んだ。1937年に僧院宿舎建設のため、インドに向かった後、日本を取り巻く国際情勢が緊迫悪化したため、一時アメリカに帰る。アメリカ軍少将カーチス・ルメイは焼夷弾の効果を検証する実験のため、砂漠に東京下町の木造家屋の続く街並みを再現したが、この際、日本家屋のデータを提供したのはレーモンドであった。ナチス・ドイツの母国チェコへの迫害と、帰米前に受けた外国人排斥と日本の軍国主義化に対する鬱憤のためであったという説もある。この実験は東京大空襲などで生かされた。(戦後、この点を一部の日本人建築家らから批判を受ける。)<br /><br />第2次世界大戦後の1947年にダム建設予定地の調査のため再度来日。その後、新たに事務所を開設し、モダニズムの理念に基づく秀作を多く残している。<br /><br /><a href="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RgmpnByHkCI/AAAAAAAAAEU/s4afGkg6EXE/s1600-h/200px-%25E3%2582%25A2%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2588%25E3%2583%258B%25E3%2583%25B3%25E3%2583%25BB%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25A2%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2589.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp2.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RgmpnByHkCI/AAAAAAAAAEU/s4afGkg6EXE/s320/200px-%25E3%2582%25A2%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2588%25E3%2583%258B%25E3%2583%25B3%25E3%2583%25BB%25E3%2583%25AC%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25A2%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2589.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5046751345403990050" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />作品<br /> <br />夏の家(1933年) <br />群馬音楽センターを背後から東京女子大学総合計画(東京都杉並区/1921年) <br />霊南坂の家(東京都港区/1923年/現存しない) <br />聖心女子学院 修道院および教室(東京都港区/1924年) <br />旧星商業学校(現 星薬科大学/東京都品川区/1924年) <br />エリスマン邸(横浜市中区/1926年/元町公園内に移築) <br />小林聖心女子学院本館(兵庫県宝塚市/1927年/登録有形文化財登録) <br />旧ライジングサン石油会社社宅(現 フェリス女学院10号館/横浜市中区/1927年) <br />旧イタリア大使館日光別邸(栃木県日光市/1928年) <br />聖路加国際病院(1928年/装飾のないデザインが不評を買い、レーモンドは建設途中で解雇。J.V.W.バーガミニーが引継いで完成させた。) <br />トレッドソン邸 (栃木県日光市/1930年) <br />アメリカ大使公邸(東京都港区/1931年) <br />夏の家(長野県軽井沢町/1933年/移築後、現 ペイネ美術館)。ル・コルビュジエの計画案を取り入れ、コルビュジエから盗作だと指摘を受けた(後に和解)。 <br />小寺別邸(長野県軽井沢町/1934年) <br />旧聖ポール教会(現 聖パウロカトリック教会/長野県軽井沢町/1934年) <br />東京女子大学礼拝堂及び講堂(東京都杉並区/1934年) <br />ポンディシェリーの僧院宿舎(インド/1937年) <br />ニューホープの家(アメリカ/1939年) <br />リーダーズダイジェスト東京支社(1949年/現存しない/現在の毎日新聞東京本社、パレスサイドビルの位置に所在) <br />レーモンド自邸(麻布笄町の家)(1950年/現存しない/この作品を模範に建設された旧井上房一郎邸(高崎市)がある。(現高崎哲学堂)) <br />レーモンドホール(三重県津市/1951年/登録有形文化財登録) <br />カニンガム邸(東京都港区/1953年) <br />聖アンセルモ目黒教会(東京都目黒区/1954年) <br />聖アルバン教会(東京都港区/1955年) <br />群馬音楽センター(1958年) <br />立教新座高等学校 校舎および聖パウロ礼拝堂(埼玉県新座市/1961年) <br />札幌聖ミカエル教会(札幌市東区/1961年) <br />軽井沢の新スタジオ(長野県軽井沢町/1962年) <br />南山大学総合計画(名古屋市昭和区/1962年) <br />新発田カソリック教会(新潟県新発田市/1962年) <br />神言神学院(名古屋市昭和区/1964年)<br /><br /><a href="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RgmqFxyHkEI/AAAAAAAAAEk/vjCvM2ubIPc/s1600-h/250px-%25E8%25BB%25BD%25E4%25BA%2595%25E6%25B2%25A2_%25E5%25A4%258F%25E3%2581%25AE%25E5%25AE%25B6.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RgmqFxyHkEI/AAAAAAAAAEk/vjCvM2ubIPc/s320/250px-%25E8%25BB%25BD%25E4%25BA%2595%25E6%25B2%25A2_%25E5%25A4%258F%25E3%2581%25AE%25E5%25AE%25B6.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5046751873684967490" /></a><br /><a href="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RgmqBxyHkDI/AAAAAAAAAEc/q6aPKjaun1A/s1600-h/250px-%25E7%25BE%25A4%25E9%25A6%25AC%25E9%259F%25B3%25E6%25A5%25BD%25E3%2582%25BB%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25BF%25E3%2583%25BC.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RgmqBxyHkDI/AAAAAAAAAEc/q6aPKjaun1A/s320/250px-%25E7%25BE%25A4%25E9%25A6%25AC%25E9%259F%25B3%25E6%25A5%25BD%25E3%2582%25BB%25E3%2583%25B3%25E3%2582%25BF%25E3%2583%25BC.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5046751804965490738" /></a><br /><br /><a href="http://www.gaiheki-japan.com/"target="_blank">トップページ</a><br /><a href="http://hoshi-yokohama.com/"target="_blank">ホームページ</a>hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-41459030714908587062007-03-27T08:34:00.000+09:002007-04-08T17:41:41.244+09:00建築家アントニオ・ガウディ(スペイン)<a href="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3zdhyHkUI/AAAAAAAAAGg/Nj04hqWTnJc/s1600-h/180px-Casa_Mil%25C3%25A0.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp0.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3zdhyHkUI/AAAAAAAAAGg/Nj04hqWTnJc/s320/180px-Casa_Mil%25C3%25A0.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5047958445962531138" /></a><br />創造的たろうとして脇道にそれてはならない。 <br />通常なされていることを観察し、 <br />それをよりよくしようと努力すればそれでよい。 <br /><br />独創とは起源に戻ることである。 <br /><br />人間は決して自由な存在ではない。 <br />でも、人間の意欲の中には自由が存在する。 <br /><br />人の一生を天秤にかけてみれば、 <br />歓びよりも苦しみの方が多いことは明らかだ。 <br /><br />建築家は、生涯苦しい研究と忍耐を <br />繰り返さなければならない。 <br /><br />人間が作り出すものは、 <br />すでに自然という偉大な書物に書かれている。 <br />人間はこれを読む努力をしなければならない。 <br /><br /> アントニオ・ガウディ(スペイン)<br /><a href="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RghbblyFJCI/AAAAAAAAAD8/C0HWUELYCAY/s1600-h/Antoni_gaudi.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp1.blogger.com/_4VSReRQX2oU/RghbblyFJCI/AAAAAAAAAD8/C0HWUELYCAY/s320/Antoni_gaudi.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5046383912025400354" /></a><br /><br /><br />生涯<br />1852年6月25日、カタルーニャ地方のレウスという街に生まれた。<br /><br />5歳の時、リウマチに罹患した。激しい痛みのため、遠出する際はロバに乗っていたという。このため、自由時間になると家の近所で自然を観察して過していた。こうした幼年期の自然との触れ合いが、自然の造形の観察と分析からデザインを導き出す彼の設計手法に影響を与えたと考えられている。<br /><br />1873年から1877年の間、ガウディはバルセロナで建築を学んだ。1878年に建築家の資格を取得している。<br /><br /><br />前半生の主な作品<br />太字で示したものは。アントニオ・ガウディの作品群として世界遺産に登録されている。<br /><br />バルセロナのレアル広場の街灯(1878-1879年) <br />手袋屋のショーケース(1878年) <br />パリ万国博覧会に出品。この作品を通じて富豪エウセビオ・グエルの知遇を得た。 <br />マタロの労働組合本部(1878-1882年) <br />ごく一部ではあるが、ガウディが初めて木材を用いて放物線状のデザインを表現した。 <br />カサ・ビセンス(1883-1885年) <br />サンタンデールのエル・カプリッチョ(1883-1885年) <br />グエル別邸のパビリオンと厩舎(1884年) <br />サグラダ・ファミリアの地下聖堂(1884-1891年) <br />グエル邸(1886-1889年) <br />アストルガの司教館(1887-1893年) <br />テレサ学園(1889-1894年) <br />サグラダ・ファミリアのアプス外壁(1891-1893年) <br />レオンのボティネス邸(1891-1892年) <br />カサ・カルベット(1898-1900年) <br />コロニア・グエル教会堂(1898-1914年 未完) <br />グエル公園(1900-1914年) <br />カサ・バトリョ(1904-1906年) <br />カサ・ミラ(1905-1907年) <br /> この節は、書きかけです。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。<br /><br />後半生<br /> <br />サグラダ・ファミリアガウディは後半生を熱心なカトリック教徒として過した。1914年以降、彼は宗教関連以外の依頼を断り、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注いだ。しかし、親族や友人の相次ぐ死によるガウディの仕事の停滞とバルセロナ市が財政危機に見舞われたことによってサグラダ・ファミリアの建設は進まず、同時に進めていたコロニア・グエル教会堂の建設工事は未完のまま中止されてしまう。さらに1918年、パトロンのグエルが死去。<br /><br />この頃の不幸の連続がガウディを変えたと言われている。彼は取材を受けたり写真を撮られるのを嫌うようになり、サグラダ・ファミリアの作業に集中するようになった。<br /><br />1926年6月8日、ガウディはミサに向かう途中、路面電車に轢かれた。晩年身なりに気をつかわなかったため、貧民の為の病院に運ばれた為に手当てが遅れ、二日後に息を引き取った。享年73。サグラダ・ファミリアは未完成で、現在も工事が続けられている。<br /><br /><br />設計手法<br />彼の建築は曲線と細部の装飾を多用した、生物的な建築を得意とし、その独創的なデザインは多くの建築家や芸術家に影響を与えた。その設計手法は独自の構造力学的合理性と物語性に満ちた装飾の二つの側面より成立する。網状の糸に重りを数個取り付け、その網の描く形態を上下反転したものが、垂直加重に対する自然な構造形態だと考え、石工がしり込みするような建築を作らせた。工事中の建物の内部に入って自ら足場を取り除き、身を持って安全性を示そうともした。装飾は形式的なものに留まらず、植物・動物・怪物・人間などをリアルに表現した。<br /><br />彼は、設計段階で模型を重要視し、設計図をあまり描かなかった。設計図は役所に届ける必要最小限のものを描いたのみである。そのため彼の設計図はあまり残らず、替りに模型が多数残り、現在のサグラダ・ファミリア(聖家族教会)の工事は残された模型を尊重しながら進められている。<br /><br />サグラダ・ファミリアの設計を目の当たりにした評論家たちは、ガウディに対して「悪魔なのか、天才なのか・・・」とつぶやいていた。<br /><br /><a href="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3zYRyHkTI/AAAAAAAAAGY/s1wQqeLLRkI/s1600-h/180px-Sagrada_Familia.jpe"><img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;" src="http://bp3.blogger.com/_4VSReRQX2oU/Rg3zYRyHkTI/AAAAAAAAAGY/s1wQqeLLRkI/s320/180px-Sagrada_Familia.jpe" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5047958355768217906" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.gaiheki-japan.com/"target="_blank">トップページ</a><br /><a href="http://hoshi-yokohama.com/"target="_blank">ホームページ</a>hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-89890764777747529702007-03-26T19:43:00.001+09:002007-03-28T17:55:41.254+09:00日本と海外との比較欧米では建築家個人の作家性や学際性の問題と、実務上の資格・責任・経験の問題とが一体となっているのに対し、日本ではいまだばらばらである。現在までJIAが中心となり、国際水準に合わせるため建築家としての統一資格制度の整備を試行してきたが難行している。<br /><br />また、欧米では、建築家の社会的な自立性・中立性保持の観点から、専業の設計・監理以外で収益や給料を得る者(ゼネコンの設計部、不動産・広告代理業の企画設計部門、大学の研究者など)は、たとえ建築に携わっていようと「建築家」としては認めていない(但し、大学教授など、一定の職能資格を有し、学外において設計実務を兼任している場合はこの限りではない)。また「設計・監理」と「施工」とは互いにプロフェッションとして独立している(設計と施工の分離)。対して日本では、教育と実務、設計・監理と施工の分離が明確に規定されてこなかった。このため、現在、入札方式や設計料ダンピングの問題などが浮上している。<br /><br />米国 <br />米国では、建築家と認められるためにはいくつかの試験に合格し、登録料を支払う必要がある。なお、米国の建築家は資格取得までに実施前提の建築設計に携わることを含む8年間の実務経験を必要とされる。建築家協会 (American Institute of Architects、AIA) は建築家に保証・保険などのサービスとネットワークを提供する職能団体である。身分証明にAIA を付記することは、この会員建築家にのみ許される。とはいえ、AIA メンバーでなければ建築家ではない、という訳ではなく、AIAに所属しない建築家も多い。<br /><br />英国 <br />RIBA(王立英国建築家協会、Royal Institute of British Architects)の定めでは、「建築家」としての資格取得までに、特定の教育研修機関でのディプロマ取得と一定期間の実務経験を有することとしている。これは最短でも大学院以上の履修課程を含め6年間かかる(日本やアメリカの「学部」に相当するものを入れると8年以上)が、最短で取得できる者はまれである。ヨーロッパのディプロマ制度・実務資格も、これに準拠している。(参照:RIBAゴールドメダル)<br /><br /><br />ゼネコン設計部<br />日本では明治時代後半から清水組などの大手建設会社が大学出の学士を採用するようになり、自社で設計から施工までを一貫して行う体制を整えてきた。この点は西欧流に設計と施工の分離を唱える立場からは問題視され、戦前の「建築士法」制定運動の中では、施工会社が設計を行うことを禁止しようという主張も見られた。しかし、現在の日本でも大手ゼネコンの抱える設計部は建築界において大きな位置を占めており、評価の高い作品も多く生み出している。<br /><br /><br />プロフェッサー・アーキテクト<br />大学で建築教育を行いながら、実際の設計に関わるものをいう。日本では、古くは東大の伊東忠太や早稲田の佐藤功一らの例があるが、特に東大の内田祥三は営繕課長を兼ねて安田講堂を含むキャンパス計画を作成し、教え子を育てながら大学のグランドデザインを実現させていった。第二次世界大戦後も丹下健三、芦原義信、吉田五十八、吉村順三などプロフェッサー・アーキテクトの例は多い。単なる理論のみでなく実務に関わることは研究上・教育上も必要であり、学生に設計実務を示すことができるなどのメリットがあるとされる。<br /><br /><a href="http://www.gaiheki-japan.com/"target="_blank">トップページ</a><br /><a href="http://hoshi-yokohama.com/"target="_blank">ホームページ</a>hoshi-yokohamanoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2614205666215559713.post-26105358046572708262007-03-25T16:05:00.000+09:002007-11-06T16:21:37.002+09:00建築家の地位建築家の地位<br /><br />【欧米】<br />欧米における建築家は、伝統的に医師・弁護士と共にプロフェッション(公益のために働く専門家)として扱われており、構造・設備などの技術者(エンジニア)とは区別される。<br /><br />中世ヨーロッパにも大聖堂を築いた工匠は存在していたが、建築技術者は一般に職人と見られていた。建築家の地位が確立ししたのはルネサンス期以降で、建築家の名前が作品とともに伝えられるようになった。15世紀イタリアのブルネレスキが建築家の始めとされる。当時、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)に世界最大のドーム屋根をかけることが課題となっていたが、巨大な足場が必要になるため、建設は非常に困難と見られていた。ブルネレスキはこの課題に合理的な解決をもたらし、足場を築かずにドームを造る方法を提案して、ドームの建設にあたった。また、万能の天才といわれた人文主義者アルベルティは『建築論』を著し、学問的に建築学を位置づけた。これらの人物の活動によって、次第に職人とは異なり、高い教養と科学的知識を持つ建築家の職能が確立していった。ルネサンス期以降、建築家は主に社会的な事業に関わる芸術家として尊敬を集めてきた。<br /><br /><br />【日本】<br />現在の日本においては、必ずしも「建築家」の明確な定義がされてなく、たとえ国家資格である建築士の資格を取得している人でも一割以外は設計の経験がない。そのため、米国やヨーロッパなどにみられるような建築家としての地位は存在してなく、あくまでも個人の自称に留まっているのが現実である。<br /><br /><br />【日本の「建築家」】<br />日本では伝統的に設計と施工を兼ねる大工棟梁がいた。幕末・明治初期に洋風建築を造った大工棟梁として二代目清水喜助(清水組)らが知られる。Architectの概念は、明治時代以降に輸入されたもので、まずは明治政府が雇用したお雇い外国人トーマス・ウォートルスやジョサイア・コンドルらが活躍した。次いで官立大学を中心に西欧の建築学が導入された。東京駅の設計で知られる辰野金吾は工部大学校(後の東京大学工学部)1期生である。<br /><br />Architectureは当初「造家」と訳され、1886年に工部大学校卒業生を中心に「造家学会」が設立された。やがて伊東忠太による提案を受け、1897年に建築学会(現日本建築学会)と改称した。伊東は、「造家」では技術的な要素が強すぎるので、芸術的な要素を強調するため「建築」という名称を主張したものであった。しかし、建築学会にはやはり技術的な側面が強く、純粋な建築家のみでなく、施工側の建設会社も参加する団体となっていた。これに対する反発として、大正時代に日本建築士会と関西建築協会が結成された。日本建築士会は設計と施工の分離を主張し、西欧のArchitectに相当する地位を確立すべく、「建築士法」制定運動を起こした。1925年に「建築士法」案が議会に提出されたが、建築界の反対もあって成立を見なかった。<br /><br />第二次世界大戦後の1950年、建築士法が成立し、国家資格としての「建築士」制度が誕生した。(名称は同じだが)その内容は戦前期に提案されたものと異なってお